超訳【碧巌録】
第82話(抄) 維摩のオッサンと「絶対の境地」
2008.1.11
さて皆さん、あるものごとを「よし」とするにあたって、その「よし」という判断を「よし」とするのは何によるのでしょうか?
はたまたその「よし」という判断を「よし」とすることを「よし」とするものは?
はたまたその「よし」という判断を「よし」とすることを「よし」とするものを「よし」と(以下略)
あるいは、あるものごとを「ダメ」とするにあたって、その「ダメ」という判断を「ダメ」とする(以下略)
・・・つまるところ、そんなものはわからない、というか存在しないと考えた方がスッキリするということを知るべきです。
「よし」も「ダメ」のどちらも成り立たず、「よし」とか「ダメ」とかの区別をすることすらも忘れた時、はじめてキレイサッパリ、スッキリした気持ちになれるというわけですね。
それはまぁよいとして、ここでひとつナゾナゾをだしましょう。
あなたの顔の「前にあるもの」と「後ろにあるもの」、それはいったい何でしょうか?
え?わけがわからない?
しょうがないですねぇ、それでは特別にヒントを出しましょう。
ある修行僧は、かつてこう答えました。
「顔の前」には「立派な門」が、「顔の後ろ」には「応接間とリビング」があるのです!」
さて、コイツはいったい「わかっている」のか「わかっていない」のか、どちらだと思いますか?
それがわかるようであれば、まぁ、あなたは合格です。
かつて維摩のオッサンは、文殊菩薩をつかまえてこう質問しました。
「オマエさんがたどりついた「絶対」の境地とはどのようなものか言ってみろ!」
それに対して、文殊菩薩はこう答えたそうです。
「えーとですね。
わたくしが思いますに「絶対」の境地とは、
「言葉にできない」し「説明できない」ものであり、
つまり「問答の対象とすることができない」ものなのではないかと。
ところで維摩さん、あなたのご見解はいかがですか?」
さて、かつて雪竇和尚は、この話を皆に話し、さらに質問しました。
「さぁ、維摩はなんと答えたか?言ってみろ!
・・・はっはっは!まるっきり「お見通し」ってわけだ。」
維摩のオッサンは菩薩集団に前述の質問を投げかけて、32の回答を得たのですが、どれも皆「有と無」、「聖と俗」といった対立をとりあげた上で、それらは実は「ひとつ」だとするものでした。
そして文殊菩薩は、「それは言えないし説明できない」と回答したのです。
つまり32人が口で説明できることは全て説明し、文殊が口で説明できないということを説明し、あわせて完璧な説明となったハズだったのです。
ところが、実はこれでスッキリ、キレイサッパリとはならないのです。
なんて言ったらいいでしょうかね。
たとえば庭をホウキで掃除するとしましょうか。
必死に掃いて掃いて掃きまくり、ついに何もかも取り除いたところで、よくよく見ると、あたり一面ホウキの掃き跡だらけで、どうにもあまり美しくない、というような感じですか。
維摩経によると、この時維摩のオッサンは、「ただ何も言わずに黙って座っていた」ということになっています。
そのぐらいのことは我らの間では誰もが知っていることなのですが、雪竇和尚は、あえてこの話をとりあげた上で、「さぁ、維摩はなんと答えたか?言ってみろ!」と迫ったわけです。
皆さんはどう思われますか?
この和尚はちゃんと、わかっているのでしょうか?
それとも、わかっちゃいないのでしょうか?
どうも「夢に見ることすら夢見ない」ってヤツのような気がしますね。

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