超訳【夢中問答】
第15話 加持祈祷の真意とは?
2009.12.26、(2010.1.30中段追加)
足利直義:「そういうものなんですかね・・・
ところで和尚、真言宗には「加持祈祷(かじきとう)」という必殺技があって、呪文や儀式などによって人々の苦しみや災難を「エイッ!!」とばかりに打ち払うことができるのだとか。
禅宗は何だかわけのわからないことを言うばかりで、そういうわかりやすいのがないからちょっとね・・・
などと悪口を言っているヤツがいるのですが、これはどうなんでしょうね?」
夢窓国師:「まったく、アホウの相手は疲れるわい。
真言宗などのいわゆる密教では、「この世に善悪は存在しない」と説く。
つまり、「この世のありとあらゆるものは、大日如来そのものなのだ」という理屈じゃな。
さて、そういうことであれば、「賢い」とか「賢くない」とかの区別はなく、「金持ち」や「貧乏」、「勝った、負けた」などということはもちろん、「苦しい」とか「楽しい」とか、「幸せ」とか「不幸せ」とかの区別もないということになるハズじゃ。
だというのに、呪文や儀式によって、いったい何を求めたり打ち払ったりしようとするのじゃ?
ああいう「わかりやすい」手段というものは、ものごとについて考えようともしないバカタレの注意を惹きつけるための演出に過ぎないのじゃよ。
で、彼らがやってくれるというから、我ら禅宗ではそういったまわりくどい小芝居は全部抜きで、「そのものズバリ」を示すことにしているのじゃ。
「そのものズバリ」とは何かって?
つまるところ「生」とか「死」とかの区別は成立しないことを理解し、受け入れる。
それが真実の「延命の秘法」じゃ。
つまるところ「災い」とか「病気」とかは実在しないことを理解し、受け入れる。
それが真実の「息災の秘法」じゃ。
つまるところ「金持ち」も「貧乏」もないことを理解し、受け入れる。
それが真実の「増益の秘訣」じゃ。
つまるところ自分と他人は区別できない、つまり憎んだり恨んだりする「敵」は存在し得ないことを理解し、受け入れる。
それが真実の「調伏の秘法」じゃ。
つまるところ「愛」と「憎」は同じものであることを理解し、受け入れる。
それが真実の「敬愛の心」じゃ。
これらがちゃんとわかっている人には、いまさら怪しげなオマジナイの類は不要なのじゃよ。
「禅宗には苦しみや災難を打ち払う手段がない」などとは、トンデモナイ言いがかりじゃ!
もう一度言うが、加持祈祷はバカタレを振り向かせるための演出に過ぎん。
世の中のすべての人々は、燦然と光り輝く御本尊=大日如来と同一であるというのに、ちっとも理解しようとしない。
でもそのままじゃかわいそうだから、というのでやって見せているのが、つまり加持祈祷じゃ。
真言宗は今でも大勢の信者がおるが、究極の真実を求め、世の中のあらゆる演出の裏を見極めて、今のこの生身のままで仏になること(即身成仏)を目指すような殊勝なヤツはほとんどいなくなっちまって、寺に集まってくる連中はといえば、ひたすら「金持ちになりたい」とか願うような俗物ばかり。
そんな状態じゃから、もう密教の高僧たちも困ってしまって、「本当はこれが目的じゃないんだけどなぁ・・・」と思いながらも火を焚いたり太鼓を叩いたりして、しぶしぶ俗物どもにつきあってやっているというのが現状なのじゃ。
それだけならばまだしも、真言宗の坊主の中には、そんなことばかりやっていたおかげで自分まで本旨を見失っちまって、自分の金儲けのためだけに「加持祈祷」の営業に血道をあげるようなのまで現れる始末じゃ。
もうこうなってしまうと、名前は密教でも、やっていることはうさんくさい陰陽師と一緒じゃ。
心ある真言師は皆、それを嘆いておる。
でもまぁ、最初に「手段としての「演出」を引き受ける」と宣言してしまっているもんじゃから、いまさらやめられないというわけじゃ。
「そんなんでも、仏教に興味を持ってくれるだけマシ」との割り切りも必要だしな。
とはいえ、信者の当然の権利だと思い込んで、寺に対してアレコレとくだらないことを祈るように依頼するようなのは、これはもう信者などではなくて禅宗を滅ぼそうとたくらむ敵だと考えるべきじゃ。
そんなバチあたりなヤツの祈りなど、かなうわけがない。
・・・まぁ、世の中そんなヤツばっかりなのじゃが、どうして「お坊さん方にあられましては、本来のお勤めである坐禅をきっちりとやって、宗教の中身を濃いものにしていくことに全力を注いでくださいませ。そして、もしご迷惑でなければ、わずかなりとも日常生活の心構えなどについてのヒントをいただけますでしょうか?私も私なりに努力して、「究極の真実」を追求して参りたいのです!」というような殊勝な態度がとれないかな。
そんなヤツの祈りなら、坊主どもや菩薩たちが進んで実現に向けて後押ししてくれるだろうし、仏様もまた、喜んで叶えてくれること間違いなしだというのに。
それに、例えばそいつが「究極の真実」まで行きつけなかったとしても、必ずや、現実社会に対してためになることがたくさん得られるだろうに。
かつて、禅宗の大ファンだった北条時頼さんが建長寺をつくった時、宗の国(中国)から招かれて初代住職となった大覚禅師(=蘭渓道隆)は、信者に頼まれるがままに祈祷をする坊主に対し、こう言って叱ったそうじゃ。
「そんなことをやっているようでは、オマエはとてもまっとうな宗教者とは呼べんな。坐禅修行や経典の勉強をしっかりやっているとかいないとか以前の問題じゃ!」
そんなわけじゃから、世間一般の愚にもつかない利益など、取り扱うのもアホらしいということになるのじゃ。
坊主どもだけではなく、信者やその家族たちもまた、「究極の真実」を悟ることだけを目標としなければならない。
大覚禅師に引き続き、兀菴(ごつあん)、佛源、佛光と、続々と宋の国から大禅師が渡来したのだが、彼らがやろうとしたこともまた、それに尽きるのじゃよ。
そのおかげかどうかはともかく、当時の在家の信者たちは今と違ってキモが座っておった。
ちょうどその頃、蒙古襲来という大事件があったのじゃが、坊主どもはもとより、信者たちの誰も慌てず騒がずだったという。
当時の建長寺住職は佛光禅師だったのじゃが、大事件勃発中にもかかわらず、皆を呼び集めて物事の道理についての講義を実施したそうじゃ。
その講義の様たるや、実に素晴らしいものであったと寺の記録に残っておる。
そしてその後も円覚寺を建立したりして引き続き禅宗の普及につとめたおかげで、モンゴルの軍隊に占領されずに済んだのはもちろん、北条家も2代までつつがなく政権を担当することができたのじゃ。
余談じゃが、北条時頼も、その息子の時宗も、なかなか立派な往生ぶりだったとか。
さて、その後も2代続けて北条家は禅宗の信者であったワケなのじゃが、どちらかというと仏教よりは世間の事柄の方を重視したようで、大して重要でないことでもアレコレとお祈りするように寺に依頼するクセがついてしまった。
そして寺の側も権力者からの依頼に対応して年がら年中祈祷行事に明け暮れるようになってしまい、じっくりと腰を据えて教理を研究することを通じて人格を高め、実践の方法を模索するなどということはすっかり廃れてしまったのじゃ。
皆が口々に「これは大事なことですから!」とアレコレお願いし、「まぁ、儲かるからいいか」とばかりに坊主もそれを引き受ける。
こいつらは皆、既に「本当に一番大事なこと」は何であるのかを忘れてしまっているのじゃ。
「禅宗を滅ぼそうとたくらむ敵」と呼ばずして、何と呼ぶべきかの!?」
(つづく)