東西の古典を、きわめて平易な現代語に訳出する試みです。
意によって大幅に構成を改編し、読みやすくするために潤色を施しています。

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超訳【夢中問答】

第27話 智慧とは、ただの道具である

2012.10.22

足利直義:「いや、そうはおっしゃいますが、そもそも「六波羅蜜」と呼ばれている立派な人になるための六原則の中でもっとも重要なのは「般若波羅蜜」、つまり「智慧」です。

それがなければ、残りの五つも成立しないからなのですが、和尚はなぜ先ほどから「智慧」をそんなにも目の敵にされるのでしょうか?」

夢窓国師:「「般若」とはサンスクリットで「智慧」を意味する言葉じゃ。

ただひとくちに「智慧」と言っても、仏教においては「真智」「妄智」「権智」「実智」など、様々な種類がある。

世の中の連中は、勉強してアホさ加減を改善することが「智慧」だと思っているようじゃが、円覚経には「智慧とアホはどちらも等しく「般若」である」と書かれておる。

これはつまり、「アホが治った状態を智慧というのではない。まず、アホと智慧が違うものだと考えることが「第一の妄想」である。そして、「アホ」を直して「智慧」を得たいと考えることが「第二の妄想」である。

「般若」は中国語で「覚」とも「道」とも訳されるが、「道」は「知」にも「知ではないもの」にも属さない。「知」があるなどと思うのはカンチガイに過ぎないし、「知ではないもの」は表現してみせることができない。」ということなのじゃ。

禅宗なんかの坊主の中には「自分が生まれてきた理由を知ること」が「道」だと考えているヤツがおるが、それでは「道」は「知」だということになるのではないか?

逆に、「何も考えない」のが「道」だと考えているヤツもおるが、それでは「道」は「知ではないもの」ということになるのではないか?

・・・などということを、一切の予断を持たずにひたすら考え続けたならば、いつの日かきっと、誰もが生まれつき持っているハズの「真実の智慧」というものに気づき、「ああ、「道」というものは「アホ」とも「智慧」とも離れたところにあったのだなぁ・・・」と思い知る時がくることじゃろう。

そしてそうなってみれば、それまで考えてきた「智慧」や「アホ」とはなんのことはない、どちらも自分自身のことであったということが理解できるハズじゃ。

「変わらぬものなど何もない」ということを心底理解し、「結果」と「原因」の関係を正しく把握し、世間並みの富や名誉を追うことをやめることができる、というのであれば、なるほど、「そこら辺のアホウよりは智慧がある」と言えるかも知れん。

しかしそれだけでは、「真に立派な人となる」という究極の修行目標は達成できない。

菩薩修行にチャレンジするための基礎トレーニングである「三賢(さんげん)」や、先ほど説明した「十地」の菩薩修行を達成して「十聖」となったとしても、まだまだ足りない。

「一切の智慧やアホさ加減は実は同じものである」ということを身にしみて理解し、「結局のところ全ては実体をもたない幻のようなものである」ということに確信を得て、「もはや何も発生しないし、消滅もしない」ということを行動で示せるようになってもまだ足りない。

「一切の智慧やアホさ加減は実は同じものである」ということを身にしみて理解した時、これまで無くそうと、また獲得しようと努力してきたもののどちらもが、本来不要なものであったことを知り、それらを同時に振り捨てる。

この境地を、「まるでダイヤモンドのように強固に安定した状態」という意味で「金剛喩定(こんごうゆじょう)」と呼び、この時になって初めて、「妙覚」と呼ばれる本当の智慧が現れるのじゃ。

そして、先程から何回も言っているように、この「本当の智慧」というヤツは、皆、誰しもが生まれつき欠けるところなく持っているものなのじゃ。

であるからして、「本当に才能のある人は、細かい修行の段階を全て飛び越して、いきなり究極の智慧とは何であるかを知る」ことができる。

ワシの先輩がよく、「仏の智慧までひとっ飛び!」などと言っていたのは、つまりこのことじゃな。

華厳経にも、「思い立った瞬間、実は既に修行は完成しているのだ」などと書いてある。

テキスト研究を重視する学派の連中が、「苦労して十地の菩薩修行を卒業しても、それだけではまだ妙覚に至れないというのに、そこら辺のうすらアホウがいきなり究極の智慧を得るなんてことがあってたまるもんか!」などと批判するのは、つまり「究極の智慧」というものの存在を信じることができず、「アホが治った状態が智慧」じゃと考えているからに他ならない。

六波羅蜜を示したり、52の修行レベルを定めたりなどということは、全て偏差値が60に届かない連中のためにやっていることじゃ。

六波羅蜜の中で特に「智慧(般若波羅蜜)」を重視するというのは、かりそめの「智慧」を渡し舟として、イケてない連中を向こう岸に渡してやるための方便であるに過ぎない。

仏教のテキストに、「そんなにテキストの勉強したいなら、まぁ止めないから好きなようにやってみな!」と書いてあるのはつまり、このことじゃ。

仏教の目的は「テキストの勉強」をすることではないからじゃな。

渡し舟は、大河を超えて向こう岸に渡るための重要なツールじゃが、あくまでも目的を達成するための道具であるに過ぎない。

なのにアホウどもは「渡し舟」こそが一番大事なのだと考えておる。

仏様がこの世に生まれてきてあれこれと教えを説いてくださったのは、様々な状況や感情の奔流に押し流されて溺れかかっている連中を向こう岸に渡し、しっかりと自分の足で地に立たせるがためじゃ。

折角向こう岸に渡るための舟に乗り込めたというのに、舟が気に入ってしまっていつまでも舟から降りようとしないというのでは、いつまでたっても奔流を漂うばかりじゃ。

本当に才能のあるヤツは、誰かが用意してくれた「渡し舟」になんか乗らない。

何故ならば、自力で空を飛んで向こう岸に渡ることができるからじゃ。

こういう人達に「いや、まずはこのテキストにじっくりと取り組まなければ!」などと押しつけるのは、飛行自在の人に舟を持たせるようなもので、ハッキリ言って邪魔以外のなにものでもない。

禅宗がテキスト研究に重きをおかないのは、ひとえにそのためじゃ。

さて、禅宗の連中は「師匠の言行」に重きをおいておるが、これは要するに「師匠の言行」という渡し舟に乗っているだけのことなのであって、「渡し舟に乗っている」という点において他の宗派との違いはない。

で、「こっちの方がいい舟だ!」などと思いあがってみたところで「舟に乗っている」という点では同じであるので、もしいつまでも舟から降りないというのであれば、「向こう岸になんて行きたくないから舟なんて要らない!」なとどいうヤツよりはマシだとしても、向こう岸に渡れないということでは変わるところがない。

先に述べた「三賢十聖」の人たちは、それはもう立派な舟に乗っておるのだが、その舟から降りることができていないが故に、「奔流」を渡れていない。

ましてや、ちっぽけな舟の中で満足していていいことなどあるわけがなかろう!!」

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