超訳【夢中問答】
梵僊和尚による後書き(再版時)
※「夢中問答」の出版にあたり、鎌倉時代末期(1330年頃)に中国(元)からやってきていた高僧、竺仙梵僊(じくせんぼんせん)に依頼して書いてもらった跋(ばつ=後書き)より
2009.8.2
私がこの本の後書きを書いてから、もう三年以上が経過した。
月日のたつのは本当に早いものである。
さて、先日のことだが、修行僧たちを束ねているリーダーである法延くんが、この本を手に私のところへやってきて、こんなことを言った。
「和尚さん!
読みましたよ、あなたの書いた後書き!
いやぁ、実にイケてますねぇ。
まるで仏さんのように、口八丁手八丁。
あちらが表からああくれば、あなたは裏からこうゆくというわけですな。
まぁ、それらが両輪となって進んでこそ、できの悪い連中もちょっとは救われるというもんですけどね。
ところで和尚さん、この本が世に出るにあたっては当事愛媛県知事だった大高重成さんの尽力があったことをお聞きになったハズですが、彼に対するコメントが全くないようですね。
あなた、彼がいったいどんな気持ちでこの本を出版したか、ご存知ですか?」
ワシは言ったよ。
「は? 大高さんの気持ち? ・・・いや、そんなものは知らんなぁ。
なかなかのセンスの持ち主だということはわかるけれども。
大量生産すればみんなの役に立つんじゃないかなぁ、という程度のものではないのか?」
そうしたら法延くん、こんなことを言う。
「和尚! あなたの仰るとおり、彼は実にセンス抜群の男でした。
だからこそ、このテキストを読んで「これは売れる!」と見抜くことができたのですよ。
ただですね、この本が出版されるまでの道のりは、決して平坦なものではなかったのです。
そもそも、この本の著作権者である夢窓国師は、出版することに反対でした。
それを大高さんが直談判に出向いて熱心に説得を続けたおかげで、ついに国師もその情熱に負けて出版の許可を出したのです。
彼はこう言って国師を説得したといいます。
『いいですか、国師!
そもそも最初からこのテキストが存在しないというのであれば、私ももう何も申し上げることはありません。
ただ、幸か不幸か足利直義さんはメモ魔でした。
だから既にこのようにキッチリしたかたちでテキストが完成しているのですよ。
で、それを読みたい人たちが多勢いて、こぞって書き写そうとしているのですが、私はこれには大きな問題があると思います。
皆が一字一句たりとも間違いなく書き写せるというのであれば、まだいいでしょう。
ところが、まずそんなわけにはいきません。
最初の人が一文字でも写し間違えれば、もう内容は天と地ほどかけ離れたものに成り果てます。
仮に次の人が「なんかおかしいなぁ」と気づいて、それを想像で補ったとします。
そしてその次の人も「なんじゃこりゃ、これはこういうことではないのか?」と、いらん親切心を発揮してそれを修正します。
これがどんどん続いた結果として、同じものを書き写したハズなのに、どれをみても内容がちょっとづつ違うものが大量に巷に溢れることになるでしょう。
でも「決定版」がどれかわからない以上、人々は大混乱に陥ったまま右往左往することになるのです。
「みなの役に立てばよい」という気持ちで実施したことが、かえって混乱を招くことになってしまうのですよ!
確かに、国師がここに書かれていることを話されたのは、あくまでも悩める副将軍だった足利直義さんの質問に答えたまでなのであり、その他多勢の役に立てようなんていう気はなかったでしょう。
しかしですね、あのブッダもまた、そうだったではありませんか!
ブッダは決して最初から「世界中の人々を救う」などと大風呂敷を広げて説法を開始したのではありません。
その場その場で、特定の人からのプライベートな質問に答えていったまでのことです。
そしてそれが結果として、未来にわたって多勢の人々を救うこととなったのです。
ご存知の通り、当事は文字ではなく暗記による伝承がメインでしたから、当のブッダが亡くなった途端に「言った言わない」の確認ができなくなり、あっという間に教義の混乱が巻き起こりました。
それを収束させたのが、ブッダの話を直接聞ける立場にあった弟子たちが組織した「テキスト統一委員会」だったのです。
彼らが巷に溢れた教義・教説を幅広く集め、比較検討の上で「決定版」を確定する作業である「結集(けつじゅう)」を実施してくれていなければ、仏滅後2000年以上も経った今、どうして我々はその内容を正しく知ることができたでしょうか!?』
で、国師は渋々ながらも出版を承諾し、たくさんの人たちがちゃんとした「決定版」を手に入れることができるようになりました。
そして、信頼性の高いテキストが一本、歴然としてあるお陰で、皆は安心してまっすぐに大道を進むことができるようになったというわけです。」
それを聞いて、ワシは言ったよ。
「全くじゃ! ああ、全くそのとおりじゃ!
ところでオマエさんはわかっておるのかな?
その「大道」などというものは、誰に教えてもらうまでもなく、いつだって実にハッキリと我らの目の前にあるのだということを。
そして現在・過去・未来の仏たちや師匠たちが説くような教義は皆、寝言のようなものなのだということを!」
法延くんは言ったさ。
「わっはっは! こりゃまた一本取られましたね。
というわけで和尚、是非、今の話も追加しておいてくださいよ。」
で、ワシはOKしたというわけじゃ。
法延くんはまた、こんなことを言っていたっけ。
「ご存知ですか?
大高さんは自分のことを「ビーチボーイ」または「渚の男」と呼んでいるらしいですよ。(笑)
果てしなく広くて深い知識と情熱の大海原を内に秘め、絶えることなく波打ち際の連中を楽しませ続けるという心意気を示しているわけですね。
今年の春先に福井県知事に転勤になったということですが、あんな男は、なかなかいませんよ。
全くもって、維摩のオッサンみたいな人でしたなぁ・・・」
西暦1345年10月8日
南禅寺 東部居住エリアにて
中国からの渡来僧 梵僊 再版に寄せて

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