超訳【維摩経】
第40話 菩薩たちの意見発表3
2007.9.14
菩薩たちの「発表会」は続きます。
菩薩15:「「智」と「無智」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「無智」の正体は「智」にほかならない」のだということを知りました。
しかし、それでは「その「智」とはいったい何ものなのかというと、実はそれを知ることはできない」ということも知りました。
「知ることができない、知らない」ことを「無智」と呼びます。
つまり「智」の正体は「無智」だったのです!
「智」は「無智」、「無智」は「智」。
これこそ「絶対」の境地です!」
菩薩16:「「形あるもの」と「形のないもの」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「形あるもの」が崩れて「形のないもの」となるわけではない」ということを知りました。
「形あるもの」を成り立たせていたもの自体が、既に「空」であったのです。
ものごとは全て、「形」のあるなしを問わず、その本質を欠いているのです。
形成作用はもちろんのこと、表象、感受、さらには識別作用も、また同じことです。
あらゆるものごとは、「本質を欠いている」という点において違いはありません。
これこそ「絶対」の境地です!」
菩薩17:「物質の「四大元素」であるところの地水火風、それと「虚空」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「四大元素」は「虚空」によって成り立っている」ということを知りました。
これを徹底して突きつめると、「「既に過ぎ去った過去」と「いまだ来ていない未来」と「今この瞬間である現在」の間には何の区別もない」ということがわかります。
「四大元素」の相互作用によるエントロピーの増減が否定された以上、「時間軸」という概念は存在しえないからです。
「過去」と「未来」は存在しない。
「現在」も同様に存在しない。
これこそ「絶対」の境地です!」
菩薩18:「「見るもの(視覚器官)」と「見られるもの(視覚の対象)」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「見るもの」つまり眼そのものは、「見られるもの」をあれこれ区別しない」ということを知りました。
眼は、赤も青も白も黒も、丸も四角も三角も、ただあるがままに受け取るだけです。
眼は、「これはキモチイイからもっと見よう」とか、「これはムカツクから見ないようにしよう」とか考えたりしません。
「耳」と「音」、「鼻」と「香」、「舌」と「味」、「皮膚」と「触れる対象」の関係も、また同様です。
ここを突きつめると、「意識」と「意識の対象」すらも、その域を出ていないということがわかります。
我々は、「内部にある「意識」が、外部にある何らかの「対象」に触れたとき、喜怒哀楽・好悪などの様々な反応、感情を引き起こすのだ」と考えがちですが、実はそうではないのです。
「意識」は外部の様々なシグナルを、「ただ受け取るだけ」なのです。
つまり「感受器官」は、「感受」の対象物を全て同等に扱うということです。
そして、「全てを同等に感受する」ということは、実は「何も感受しない」のと同じことなのです。
「見るもの」は見ない。
「聞くもの」は聞かない。
「嗅ぐもの」は嗅がない。
「味わうもの」は味わわない。
「ふれるもの」は触れない。
そして、「考えるもの」は考えないのです。
これこそ「絶対」の境地です!」