超訳【維摩経】
第56話 維摩、真実の見方を説明する
2007.12.24
アチラ側の菩薩たちが帰っていくのを見届けると、世尊は維摩に言いました。
「さてと・・・維摩さん、あなたはかつて「如来(この世の真実の姿)」を見るために努力していたよな?
既にミラクルパワーを自在に操るその境地に達しているからには、きっと既に見ることができたのだと思うが、いったいどのようにして見たのかな?」
維摩は答えました。
「ええ、ワシは確かに、それを見ましたとも。
自分や仏様の真の姿を見る時のように、「見ない」という方法を使って見ましたのじゃ。
「過去にはいない、未来にも現れない、現在にはとどまらない」ものとして見ましたのじゃ。
「物質ではない、物質のあるがままの姿でもない、物質の本質でもない」ものとして見ましたのじゃ。
「感覚や意識の作用ではなく、感覚や意識を引き起こす本体でもなく、感覚や意識を引き起こす本体のよってたつところでもない」ものとして見ましたのじゃ。
「地水火風の4大元素によって成り立つものではなく、ただ虚空によって成り立つ」ものとして見ましたのじゃ。
目・耳・鼻・口・皮膚そして意識の6つの認識作用を超越し、現在・過去・未来のいずれにも属さない。それが「如来」なのですじゃ。
むさぼりも怒りも迷いも超え、全てのことを知り尽くして、しかも何も知らないに等しい。それが「如来」なのですじゃ。
決まった姿をもたず、かといって色々な姿があるわけではない。それが「如来」なのですじゃ。
自分ではない、他人でもない、自分や他人以外のものでもない。
こちら側にはない、あちら側にもない、もちろん真ん中にもない。
それにもかかわらず、確実に一般ピープルを高い境地へと連れて行く。
それが「如来」なのですじゃ。
暗くなく、明るくなく、名もなく、姿かたちもない。
強くなく、弱くなく、きれいでなく、汚くもない。
示さない、説かない、施さない、ケチケチしない、ルールを守らない、我慢しない、怒らない、進まない、サボらない、安定しない、乱れない、賢くない、バカでない、誠実でない、嘆かない、来ない、去らない、出ない、入らない、一切の言語表現を受けつけない。
寄付を受け取るのでも受け取らないのでもない、取らない、捨てない、真理の究極や法の本性と一致している。
大きくない、小さくない、あらゆる束縛を受けつけない、あらゆる智慧と一致しており、また、全ての人々と一致している。
あれこれと区別しない、得ない、失わない、濁らない、悩まない、生じない、滅しない、恐れない、喜ばない、いやがらない、こだわらない。
それが「如来」なのですじゃ。
このような見方だけが正しいのであって、それ以外の見方は全て「邪道」なのですじゃ!」
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