超訳【夢中問答】
第6話 祈願と霊験(祈りはかなうか?)
2009.9.12 ※2007.7.24初出の抄訳に増補改訂を加えました)
足利直義:「和尚様、そこまでおしゃるのであればお聞きしたいことがあります。
私は幼い頃から、仏様や菩薩様は皆、民衆の願いを叶えてくれる存在であると教えられてきました。
いや、むしろ、こちらから願うまでもなく、苦しんでいる者があれば向こうの方からやってきて楽にしてくれる、そんな存在が仏や菩薩であると。
ところが実際には、必死になって祈ったところで、叶えられることなどほとんどないではありませんか!
これはいったい、どういうことなのでしょうか?!」
夢窓国師:「ああ、それね・・・
実はここだけの話だけれども、30年ぐらい昔、ワシもオマエさんと全く同じ疑いを持ったことがあるのじゃよ。
その時ワシは茨城に住んでおったのじゃが、その年は雨がとても少なくてな、田植えの季節になっても全く雨が降らなかったのじゃ。
見渡す限りの田んぼや畑は皆、見るも無残に乾ききって、まるで枯野のようじゃった。
ワシは思ったよ。
「おいおい、なんてこったい・・・
このままじゃ人間どもは飢え死にするしかない。
龍神様はこの有様を見ても何も感じないのだろうか?・・・」
そこでふと気づいた。
「そうか・・・龍神様には、雨を降らせる能力はあるかも知れないが、人間を憐れむ心なんか、ありゃしないよな。」と。
さらに思った。
「逆に、ワシには人間を憐れむ心はあるけれども、雨を降らせる能力はない・・・
いや、待てよ・・・
仏や菩薩も雨を降らせる能力があったハズだな。
それも龍神様なんかよりも遥かにたくさん。
しかも、人間を憐れむ心だって、ワシなんかよりもずっとずっと深いハズ。
なのに人間どもがこんなに困っていても、何もしようとされないのは何故だ!?
もしも「民衆のデキが悪いから助けないんだ」というのであれば、民衆は永遠に救われることはないということになる。
さては「仏や菩薩が人間たちの願いを叶えてくれる」というのは大ウソか!?・・・
考えてみれば、大昔のことはいざ知らず、近頃のことを振り返ってみるに「願ったら叶った!」などという話はほとんど聞いたことがない。
薬師如来は「人間たちのあらゆる病気を取り除いてあげる」と言ったそうだが、現実には何の病気もない人など、ほとんどいない。
普賢菩薩は「人間たち全てのために奉仕する」と言ったらしいが、世間はヘルパーが足りなくて困っている人で満ち溢れているじゃないか。
たとえ家族や親戚が大勢いたところで、結局だれも頼りにならないというのが、まさに現実ではないか!
大昔には、人々が困窮しているところに立派な坊さんがあらわれて、彼らのために数々のミラクルを巻き起こしたという話があったりするようだが、今の人々の困窮ぶりは、昔に比べて勝りこそすれ、決して劣らないハズ。
こんな時こそ彗星のようにヒーローがあらわれて、一大ミラクルで人々を救うべきなのに、そんなものはまるで登場する気配がない・・・
嗚呼、神も仏もありゃしねぇ!
この世はもう終わりだ!!・・・」
・・・てなことがあって、その後すぐにそんなことはすっかり忘れちまっていたのじゃが、その後何ヶ月かたったとき、ふとこんなエピソードを思い出した。
かつて西行法師が天王寺詣での折に淀川のほとりの江口というところで旅先で旅館に泊まろうとした時のことじゃ。
西行が「お願いだから泊めてくれ」と頭を下げているのに、旅館の主人は「満室です」の一点張りで泊めてくれなかったとか。
西行はすかさず教養をほとばしらせると、歌に託してイヤミを言った。
「世の中を いとふまでこそかたからめ かりのやどりを おしむ君かな」
(いいじゃないか、泊めてくれよ、減るもんじゃなし!)
とな。
そうしたら主人は、同じく歌で次のように返したとか。
「世をいとふ 人としきけばかりのやどに 心とむなと 思ふばかりぞ」
(野宿したって死にゃしませんよ!セコイこと言わないでください・・・)
また、こんな話も思い出した。
昔、今の左京区あたりに、ある優秀な儒学者がおったのじゃが、彼は息子がまだ小さいうちから、いつも膝の上にのせて文章を読み聞かせたり書かせたりして教えていた。
いわゆる幼児英才教育じゃな。
で、外出する時には、その子を机の前に正座した状態で縛りつけ、勉強を続けるように命じていたとか。
今なら幼児虐待ということで大騒ぎになるところじゃが、それが彼の教育方針だったのじゃ。
しかし、あまりにもかわいそうだというので、継母は学者が外出すると、すぐにこどものヒモをほどいて自由に遊ばせてやり、帰ってくる頃には、またもとどおり縛り上げておいたのだそうな。
その子にとって、お父さんのスパルタぶりはなんともうらめしく、継母のかけてくれる愛情は、なんとありがたかったことじゃろう。
そしてその子は成長し、ついに父親の後を継ぐ時がきた。
さあ、これから学者として独り立ちしなければならない、となった時、お父さんのスパルタ教育のありがたみがしみじみと理解でき、また継母に対しては、なんと余計なことをしてくれたものだ、とうらめしく思ったということじゃ。
そして、ワシは悟ったんじゃ。
「なるほど、人の願いは何でも叶えればいいってもんじゃないな・・・」と。
そもそも仏や菩薩の「本当の願い」は何かといえば、それは悩める人々に「真の救済」を与えることではなかったか。
冷静に考えてみると、我ら人間たちが神や仏に「お願い」することの内容は、たいがいしょうもないことばっかりじゃ。
そんな愚にもつかない願い事を片っ端から叶えてまわるのが、果たして「真の救済」と言えるじゃろうか?
くだらない願いは叶えてやらない。
その方がそいつのためになるからじゃ。
なんでもかんでも願いを叶えてやったら、人間どもは調子に乗ってやりたい放題になるばかりだとは思わんか?
・・・まぁ、アホウな人間どもが自暴自棄にならないように、たまには願いを聞いてあげることもあるかも知れんがな。
つまり、「霊験がない」ことこそが、真の「霊験」であったということじゃよ。
神仏に「祈っても叶えられない」ことを恨むというのは、譬えるならこういうことじゃ。
ある人が病気になって医者にいったら苦い薬を飲まされ、熱い灸をすえられたとしようじゃないか。
そしてそいつは、こう文句をたれるのじゃ。
「オレは苦しみから逃れたくて医者のところに来たというのに、さらに苦しい思いをさせられた!!
医者ってヒドイ・・・(泣)」
とな。
もちろん医者がヒドイのではなく、 患者がひねくれているだけなのは言うまでもない。
いろいろなお経の最後の方には、たいてい「流通分(るつうぶん)」と呼ばれる章がついておる。
ブッダを取り巻く様々な神々とか菩薩とかが口々に「このお経はサイコー!」などと絶賛し、「我らは皆、このお経を信じる人に味方する!災難にはあわないように、病気にはならないように、お金がもうかるようにしてあげる!」などと宣言するアレじゃ。
これはつまり、マジメに努力しようとする人を励ましているのじゃ。
決して、不マジメなひねくれ者が仏教そっちのけで世間的な名誉や富を追い求めるのを手伝おうというわけではない。
・・・そう考えていくと、今の人たちの「お祈りが叶わない」などというのは、至極当然のことじゃな。
ある人が清水寺にお参りに行ったところ、一心不乱にお祈りしている年寄りの尼さんを見かけたそうじゃ。
その尼さんが「ああ、観音菩薩さま、私の心を苦しめるあの忌まわしいものを一刻も早く消滅させてくださいませ!」などと口走っているのを聞き、「その「忌まわしいもの」って、いったい何ですか?」とたずねたところ、なんでもその尼さん、若い頃からビワの実が大好物だったのじゃが、どうにもタネが多くて食べにくいのでいつもムカついていたのじゃそうな。
で、毎年5月になると清水寺にやってきて、「ビワのタネよ、なくなれ!!」と念じ続けているのだと。
で、「でも、まだ祈りの効果があらわれないのよ・・・」、と嘆いていたと。
ビワを食べる時にタネがジャマだというのは誰でも思うことじゃが、なにも清水寺まで来てお祈りするほどのことか! とその人は苦笑いしておったよ。
さてそれでは世間の人たちはどうか?
多勢でお寺や神社に押しかけて、お経や祝詞を唱えてみたりして、いったい何を必死にお祈りしているのかと思えば、「金が欲しい」とか「偉くなりたい」とか「長生きしたい」とか、そんなのばっかりじゃ。
これはつまり、ベラボウな大金持ちの家にやってきて、「ティッシュペーパーを一枚いただけませんか?」とお願いするようなもんじゃな。
その程度のものなら、なにもわざわざ大金持ちのところに頼みに行くまでもないっちゅーの!
ただ、世間一般の金持ちどもはケチだから、いきなり高価なものをよこせといっても成功する確率はきわめて低い。
だから仕方なく、まずはしょうもないものからお願いする、ということもあるじゃろう。
しかし、仏や菩薩たちをそんな連中と一緒にしてはいかんな。
仏や菩薩たちは、果てしなく「太っ腹」なのじゃから。
せっかく大盤振る舞いしようと思って待っていてくれる仏や菩薩に対して、実にしょうもないものをお願いするばかり。
ビワのタネの消滅を祈る尼さんのことを笑う資格はないよなぁ・・・
世界の北の果ての国では、何もしなくても毎年大豊作なのだそうじゃ。
だから食べ物に苦労することもなく、着る物にも困らず、病気になることもない。
平均寿命は千年じゃとか。
人間界の頂点に君臨する王である「転輪聖王(てんりんじょうおう)」には4種類ある。
すなわち、金、銀、銅、鉄の4種であり、頂点にたつ金輪聖王の寿命は8万年じゃ。
いわゆる「欲界」と呼ばれる宇宙には6つの世界があるのじゃが、その中にある毘沙門天たちの住む「四王天」における寿命は、我らの50年を一日として500年、つまり2000万年近くじゃ。
その上に帝釈天(インドラ)の住んでいる忉利天(とうりてん)があり、そこでの寿命は我らの100年を一日として千年、つまり3650万年ほどじゃ。
そこから一段階あがるごとにどんどんランクアップして、いわゆる「第六天」と呼ばれる6番目の世界には他化自在天(たけじざいてん)が住んでいるのじゃが、そこでの寿命は我らの1600年を一日として1万6000年、つまり1000億年近くじゃ。
ここまでくると、もはや「無限」に近く思えるぐらいの長さじゃが、それでも寿命が尽きる時がくる。
その上にさらに「色界(しきかい)」「無色界(むしきかい)」というのがある。
「色界」には四禅と呼ばれる世界があり、第一段階にあたる「初禅天」の支配者である梵天の寿命は43億年じゃ。
そして、この世界が最終的に滅びる時に現れる3つの大災害の影響も受けないといわれている「第四禅天」を支配する広果天の寿命はその500倍、つまり2兆年を超える。
「無色界」にも4つの世界があるのじゃが、この世界は物質的な要素を一切捨て去ったところであるので、もはや衣食住や財宝といった概念の入り込む余地はない。
そしてそこでの寿命は約1000兆年からスタートして、最終的に4000兆年を超える。
もはや想像もつかないぐらいの長さじゃが、それでも終わる時がくるのじゃ。
法華経に「三界にある限り、あらゆるものは片っ端から滅びていく。この世で暮らしているというのはつまり、ガンガン炎上中の家に住んでいるようなもんだ。」と書いてあるのは、つまりそういうわけじゃ。
世間でどれだけウハウハな人であったとしても、この世の北の果てに住む人に比べたら、まるでイケていないということになるし、先に挙げた様々な「天」になど、比べるのもバカバカしい。
異常に長生きしたところで、せいぜいが100年、つまり忉利天における一日に過ぎないし、4000兆年に比べたら一瞬にすらなりゃしない。
そんなものを必死こいてお祈りしてどうしようというのじゃ!
まったくもって、尼さんがビワのタネの消滅を祈るのと五十歩百歩じゃな。
どうせお祈りするなら、そんなしょうもないことではなく、究極のところをお祈りするべきなのじゃ。
そうすれば、究極の悟りを得られないまでも、不測の災いにあうこともなく、普通に暮らしていくだけのものは、今の人生においてだけではなく、これから先々の人生においても自然に得られることじゃろう。
にもかかわらず、たとえ得たところであの世まで持っていけもしないようなものを一所懸命祈りたおして人生を棒に振った挙句に、生まれ変わる先のレベルをどんどん下げてしまう。
なんとまぁ、あさましいことじゃ!
仏さまは完璧にもほどがあるぐらいにオールマイティなお方じゃが、次の3つだけはできないとされておる。
- 縁のない人を助けられない。
- 全人類を救済し尽せない。
- 既に作られてしまった原因から結果が発生することを防げない。
3番目の「既に作られてしまった原因」というのは、要するに前世での実績の良し悪しのことじゃ。
その報いがその後の人生において発現することは、仏や菩薩にも止められないなのじゃよ。
顔かたちの美醜、資産の多寡、寿命の長短、生まれの貴賎。
これらは全て、前世の行為の報いなのじゃ。
荘子とかはなかなかイイ線いっておるのじゃが、残念ながら上記のような違いが生まれることの理由にまで考えが及んでいない。
人類の上に現れるあらゆる「差異」は、ただもう「自然」だからという一言で片付けられてしまっておる。
仏教ではそうは考えない。
ただ「結果」だけがある、ということがあるわけがない。
必ずどこかに「原因」があるハズなのじゃ。
今「悪い結果」があるならば、過去のどこかに必ず「悪い原因」がある。
今「良い原因」をたくさん作るようにすれば、未来に必ず「良い結果」が現れる。
たったそれだけのことなのじゃが、世間の連中はといえば、既に現れてしまった「結果」を「結果」として受け入れることができず、「なんとかなりませんか・・・」などとうろたえるばかり。
まったく救いようのないアホウじゃとは思わんか?
例えば農家の人がいたとして、春先に田んぼを耕すこともせず、田植えもせず、水もやらなかったとする。
さあ秋になって田んぼを見てみれば、落穂から生えた稲がちょろっとある程度で、ほとんど何の実りもない。
その時になってから大慌てで水をかけてみたところで、最早どうにもならないのは当たり前のことじゃ。
挙句に何もない田んぼを漁りまわっては、「ちょっとは米があるんじゃないか?」などとムチャな期待をかけておる。
今どきの連中はもう、そんなのばっかりじゃ!
なんでそこで「ああ、やるべきときにサボっていたから収穫が無かったんだ・・・」と気づいて、次の年はそうならないようにしようとしないかなぁ・・・
お経の中には、「運命は変えられない!」とも、「運命は変えられる!」とも書かれておる。
「仏も人の運命には手出しできない」ともな。
わけがわからんか?
たとえばある人が物事の道理をちゃんと理解して反省し、しっかりと努力を続けたならば、どんなに重い運命であったとしても、必ず好転させることができるじゃろう。
しかし、俗物根性まるだしで、「ああ、金がもうかりたい!」とか「長生きしたい!」とかいうレベルのお祈りを繰り返すばかりでは、何もならないことは言うまでもない。
そもそも仏さまたちの究極の願いはといえば、「全人類を救済したい」ということなのじゃ。
もしも彼らが本当に「人の運命に手出しできる」とするならば、2千年近く経った今の世の中にこんなにバカタレどもが溢れておることの説明がつかんじゃろう?
また、こんな話がある。
昔々、まだ生身のブッダがいたころのことじゃ。
古代インドの大国であったコーサラ国のビドゥーダバ(瑠璃)太子は、ブッダの親元であるシャカ族に強烈な怨みを持っていた。
そして王位につくと同時に、シャカ族を殲滅しようとしたのじゃ。
ブッダはそれを察知して、3度まで阻止したのじゃが、4度目はもう放っておいた。
で、実に1億人近くが殺されることになったのじゃが、ブッダの弟子の一人モッガラーナ(目蓮尊者)はこれを知ってくってかかったのじゃ。
モッガラーナ:「ブッダ!あんた仏でしょ?!「世界中の人々を救済する」っていつも言っていたじゃありませんか!
ましてや、今やられているのは貴方の親兄弟や親戚一同ですよ!
なんで助けてあげないんですか?!」
ブッダ:「ああ、そうだな。オレもできるもんならそうしたい。
でもな、オレにもできないことがあるんだよ・・・」
さぁ、モッガラーナは全く納得がいかない。
憤然として戦場へかけつけると、かろうじて生き残っていた500人を救い出し、ミラクルパワーを発揮して、金属製のドーム状シェルターを作って、皆をその中に避難させたのじゃ。
ことの次第を報告にきたモッガラーナに、ブッダはこう言ったそうな。
「オマエなぁ・・・
オレにもできないことがオマエにできるわけないだろう?
今、彼らが滅びることは、はるか昔からの因縁の連鎖が招いた「業」によるのであって、小手先のワザでもって解決できるような種類のものではないんだよ。
オマエは「ウマイことやった」と思っているのだろうが、まぁ、戻ってみてごらん。
オレの言っている意味がよくわかるから。」
モッガラーナが急いでシェルターに戻ってみると、果たして500人は全員、シェルターの中で死に絶えていたとのことじゃ・・・
どうじゃ、キビシイじゃろう?
お経の中にはこんな話が山盛り転がっているのじゃ。
「祈ったから叶う」などという甘っちょろい考えは通用しないということを知るべきじゃ!」
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