JAPANESE THOUGHT
内藤湖南
別訳「学変臆説」
東洋史学の礎を築いた内藤湖南の文章から、学問の変化と歴史の大きな流れを捉える思考に触れます。
ABOUT THIS WORK
学問もまた、時代とともに変わる。
内藤湖南は、中国史を大きな時代の転換として捉え直した歴史学者です。「学変臆説」では、学問が分かれ、結びつき、再び新しい姿へ変化していく過程を大胆な視野で論じます。
GAKUHEN OKUSETSU · 01
学変臆説 1.イントロダクション
2008.12.30
「天」は循環運動をしているのだという。
例えば、「我々が乗っかっている大地、つまり「地球」という天体ですらも不動のものではなく、円形の軌道上を回り続けているのだという。
ただ「回る」とは言っても、実はその回転の中心点も動いていたりするので、「平面の同一円周上をいつまでもぐるぐると回っている」ということにはならない。
図にしてみればよくわかると思うけれども、その運動の軌跡は、「円」とはいっても、もっと立体的なものになるのだ。
たとえば一本線をひいて、そのまわりをぐるぐると取り囲みながら進む螺旋(スパイラル)形のイメージかな。
地球は、太陽のまわりを365日と5時間ちょっとで一周する。
で、一周し終わったら急に全然別の方向へ行ってしまったりなどはせずに、やはり今まで通ったのと同じ軌道に沿って、引き続き周回し続ける。
そういうわけだから、地球を含む、いわゆる太陽系の惑星たちからは、太陽は中心にデンと構えて全く動かないように見える。
ところがその太陽だって、実は大宇宙の中心のまわりをぐるぐると回っていたりするのだ。
だから太陽系の外から見るならば、「地球は同一の円周上をまわっている」などとはとても見えないハズであり、その軌跡は、複数のぐるぐるまわる螺旋が重なり合う「多重スパイラル」形となって見えることだろう。
そうは言ったところで人間は極めてちっぽけな存在なので、パッと見る限りは同じところをぐるぐる回っているようにしか見えなかったとしても、それはまぁ、仕方のないことかも知れない。
「一度起こった出来事は、昔も起こったことであるし、これからも起こるだろう」というような思い込みが生まれてしまうのも、まぁ無理ないだろう。
「天体が動いている」というのは、膨大な研究や論争の経てようやくたどりついた結論だ。
ただ、学者たちはこのことを「科学知識」として取り扱うだけで、これの応用の範囲を限定しすぎている。
彼らはそれが、「「すべては移り変わる」という究極の真理につながっている」ということに気がついていないのだ。
スパイラル状に発展するのは「天体の運行」だけではない。
我々は、今こそ知るべきである。
人類の道徳心や美的感覚、智慧の発達の過程もまた、同様なのだと。
これを徹底的に究明していくならば、「真」「善」「美」の極致に至るための道筋も、また明らかになることだろう。
ああ、それはなんと素晴らしく、興味の尽きないことであろうか!
・・・というわけで皆さん、もうしばらく私の話をお聞き願いたい。
GAKUHEN OKUSETSU · 02
学変臆説 2.大分裂の時代
2008.12.30
ローマ帝国によるヨーロッパ統一は、プラトン、アリストテレスらのギリシャ哲学とキリスト教を融和することで、思想世界統一の可能性を示してみせた。
(ローマ帝国が統一する前のヨーロッパは小さな国々が割拠していただけであり、「移り変わり」といったところで、それぞれの国の中だけのことであったので、今ここでは議論の対象としない)
そのおかげで教会は帝国が滅んでも、次の新しい国にその強大な権力を持ち越して保ち続けることができたのである。
後には、独裁や専制がはびこって、儀式や格式を「人の心」よりも重んじたりする弊害が発生してしまったりするわけなのだが、それでも当時は「神が全てを統治するのは当然」であるので、その代理執行者たる神職者たちが権勢を振るうのは当然のことだと、誰もが考えていたに違いない。
その時代に彼らが、自然科学の分野においても「地球は全宇宙の中心だ!」とか、「人間様は動植物の頂点だ!」とかを固く信じていたのは、決して宗教統一が原因なのではなく、当時はそういう風潮だったからと考えた方がよかろう。
そうこうするうちに、ギリシャ古代文学の復活、サラセン人経由のアジア教学流入など様々な要因によって、徐々に「自由思想」というものが形成され、ついに「宗教革命」が勃発して教会はその強大な権力を失うに至った。
ただ注意しなければならないのは、ここでうたわれた「信仰の自由」なるものは決して「政教分離」などの観点から言い出されたものではないということだ。
ここで「宗教革命」と呼ばれているものは、実は単なる宗教団体の内部分裂に過ぎない。
「オマエの信じるその「神」は、オレ様は信じない。オレ様はオレ様の「神」を信じる!」ということになっただけの話である。
それまで神職者たちが提供してきた「神」の解釈では人々が飽き足らなくなったがために、ついに教会はその権力を失うに至った。
で、その分散傾向は今に至るまで続いており、国家はもちろん、諸々の学術まで分裂してしまった。
根本中心を求めるのではなく、どんどん枝葉末節を追い求める方向へと向かってしまったのだ。
「宇宙の中心」だと信じられていた地球は、無数にある恒星のひとつに従属する星に過ぎなくなり、「万物の霊長」と信じられていた人間は、「哺乳動物の一種」ということになってしまった。
そして農工商などの各種産業は「分業」の度合いを益々強め、諸々の学問は細分化に走るばかりで相互の連絡を途絶させてしまった。
(遂には、君主中心ではなく「人民の誰もが中心」などということに・・・)
それもこれも、この「分散化傾向」のなせる業なのである。
政治も宗教も「人間を統治する」という目的においては同じものであったハズなのに、政治家は「政治」の世界に閉じこもり、宗教者は「宗教行事」に明け暮れるのみとなってしまった。
挙句にはこの状態を称して「政教分離」とか、「三権分立」とかわけのわからないことを言い出して胸を張る始末・・・
で、このような分裂・分散化傾向というのは、もうかれこれ4、500年も続いてきたのである。
GAKUHEN OKUSETSU · 03
学変臆説 3.そして大統一へ
2009.1.2
「天」は循環運動するのだという。
今さら、昔と同じことが起こるハズもないのだが、「すべては移り変わる」という究極の真理に照らしてみれば、この「分裂・分散」傾向が永遠のものであるハズもないわけで、いずれ終わるときがくることは間違いないだろう。
この頃の世界情勢を見ていると、私にはどうも「その時」が近づいているように思えてならない。
「分裂・分散」へ向かうベクトルは、今まさに逆転しようとしているのではないか?
ヨーロッパの国々は今、「ナショナリズム」の嵐が吹き荒れて、これまでにない緊張感に包まれている。
ちょっと見ただけでは、たくさんの国家間の対立が強まっているだけなので、これまでの「分裂・分散」傾向の続きのように思ってしまいがちだが、私はそうは思わない。
これこそは、来るべき「大統一」へと向かう予兆に他ならないのだ。
かつて中国にはたくさんの小国があったが、春秋・戦国時代を経て7つの有力国家に集約されていき、ついには秦がそれらをまとめて一つにしてしまった。
分裂・分散傾向とは逆のハタラキの到達点、それは全てが「ひとつ」となることだ。
今、ヨーロッパの国々は勢力争いを繰り返している。
大きいものが小さいものを呑みこみ、さらに大きくなっていっている。
アジアやアメリカでもまた、同じことが起こっている。
これこそ紛れもなく、世界が「大統一」への階段を上り始めたことを示しているのだ。
それではその「大統一」は、どのようにして成し遂げられるべきなのだろうか?
「軍事力」によるべきだと言うのであれば、ロシアを見てみろ。
既に世界中の国々の恐怖と心配の元になるほど強まっているぞ!
「経済力」によるべきだと言うのであれば、中国人やアングロサクソン人たちを見てみろ。
もはや世界中の富や財を吸い尽くそうとしているぞ!
いずれにせよ、「取ったもん勝ち」であることは間違いない。
交通・通信手段の発達した今、もしもこの「大統一」が完成されるならば、それは最早、「東西」にそれぞれ大きな国のまとまりがポコっといくつか並ぶ、などというレベルでは収まらない。
必ずや、全地球規模の「大統一」ということになるだろう。
軍事・経済のみならず、宗教ですらもこの流れから逃れることはできまい。
キリスト教にはたくさんの異なる教義を持つ流派があるが、その一長一短を補い合いながら、ついに「ひとつ」のものとなる時が来るのだ。
そしてその流れはキリスト教だけにとどまることなく、仏教その他の宗教にも及ぶであろう。
ああ、そうだとも。
「天」は歴然と循環運動しているのだ!
GAKUHEN OKUSETSU · 04
学変臆説 4.彼岸、遠からじ
2009.1.2
東洋に伝わる古代の学問を研究した結果、太古の昔に中央アジア高原で発生した「拝天教」こそが、現在世間で行われている様々な宗教のおおもとであることが判明した。
これはつまり、なんだかんだと言ったところで「人間たちの考えることなど、それぞれにそんなに大した違いはない」ということを示している。
人類は大同団結することが可能、というか、するべきなのだ。
そして、その時は近づいている!
各種の産業がそれぞれに孤立したまま、いつまでもやっていけるわけがないし、モノやカネだって流通してナンボではないのか。
つまりもう、とっくに世の中は「フロー」の時代なのだ。(資本や資産は言うに及ばず)
そして学問は系統ごとの再編成が始まり、ドイツ哲学者たちの論法は組織化が進んでゆく。
いわゆる「進化論」が、信仰を始めとした「古いもの」を手当たり次第に打ち壊してしまったことは間違いないが、その徹底的な「破壊」は、分裂・分散というよりはむしろ、「大統一」を打ち立てるための「地ならし」としての意味があった。
それまでは「人間は人間」、「サルはサル」、「イヌはイヌ」というように、種族はそれぞれの壁を越えることなく、昔も今も別のもののように思われていたが、「進化論」は、それらの壁をとりはらい、元来ひとつのものから生まれたことを明かした。
人間とサルはもとより、動物と植物、植物と鉱物の間を「ひとつながりの進化の鎖」でつなぎ合わせてしまったのだ。
そういう意味では、「進化論」は「分裂・分散」と「大統一」の橋渡しをするハタラキを、学術の世界においては発揮したといえるだろう。
そのような流れが社会思想に及ばないハズがない。
「三権分立」?
「個人の自由」?
そんなトンデモ説は、とっくにゴミバコの底にうずもれつつある!
「政教分離」!? 逝ってよし!!
「星霧(ネビュラ)理論」が天体運動に統一的な説明を与え、「進化論」の発達が科学全般の統一をうながす。
「真」「善」「美」を求める気持ちは、誰もが同じなのだ。
「東側」だとか「西側」だとかの偏狭なセクショナリズムを捨て去り、手を取り合って進むならば、必ずや「大統一」の偉業は達成できるであろう!
ただ、カンチガイしてはいけない。
この場合の「大統一」とは、決して「ひとつの強大な専制・独裁国家」ができあがる、ということではないのだ。
「中央に大きな幹があって、そこからたくさんの枝葉が伸びている」という類のものではなく、無数のクリスタルが世界中に満遍なく配置された「光の網」のようなものになるハズだ。
天帝インドラの網、いわゆる「天網」は、あらゆるものを映し出す宝玉(クリスタルボール)を光ファイバーでつなぎ合わせたものであった。
個々のクリスタルはもちろん独立した美しい玉であるのだが、互いに相手を正確に映し出すもの同士がつながれているので、無数にある玉のどれかひとつにでも情報が入ると、それは瞬時にして全ての玉に伝わる。
これこそまさに「天網」であり、この融通無碍な姿こそが、我らの世界「大統一」後の理想の姿なのだ。
各人が「自我」の殻の中に閉じこもることをやめ、「アイツはオレに何をしてくれるか」などというのではなく、「オレはアイツに何をしてやれるか」と互いに思いあうこと。
それこそが真の「平等」だ。
それができた時、本当の「平和」は訪れるのだ。
そしてそれは、今まさに来ようとしている。
もうすぐだ。
もうすぐ「渡り終わる」時が来る!
今の世界情勢は、例えるならば「始皇帝が統一する前の中国」、また「ローマ帝国が統一する前のヨーロッパ」のようなものだ。
そして今の思想界の情勢は、「董仲舒(とうちゅうじょ)がまだいなかった頃」、また「キリスト教がローマ国教として取り入れられていなかった頃」によく似ている。
・・・似ているとは言っても同じではないので、今後の世界情勢が「始皇帝統一後の中国」や「ローマ帝国統一後のヨーロッパ」のようになるわけではない。
だから今後の世界が「儒教とキリスト教を足して2で割った」ようなものになるかというと、なるわけないのである。
冒頭述べた通り、「螺旋(スパイラル)」は決して「円」ではないし、「直線」でもないのだ。
「天」は循環運動するのだが、それは決して過去と全く同じことが何度も起こるということを意味しない。
「すべては移り変わる」のだ。 スパイラルを描きながら。
・・・さて、実は私にはこの他に「思想界の中心変動について」まとめた考えもあるのですが、今回は既にあれこれと書き過ぎてしまったようなので、また今度にさせていただきます。