別訳【井上円了】外道哲学
なりゆき外道
2007.7.28
いわゆる「外道」たちは、この世の中がどうやって成り立っているかという問題を論究し、万物は「火」からできている、また「水」、「地」、「風」からできているのだと考えた。
そして、それらを合一して「世の中のあらゆる物やハタラキはその4つによってなる」、とする「四大元素論」を編み出した。
*西洋ではエンペドクレスが同様の結論を出している。
さらに、それではその「四大元素」は何でできているのか、ということをさらに論究し、「万物は微細な物質が集散分合することによって変化を繰り返す」のだという「極微(ごくみ)論」に到達した。
*デモクリトスの分子論に比される。
そして、その考え方は、「万物が極小分子によって成り立つのであるから、人間もその辺の石ころなどとなんら変わらぬ「化合物」に過ぎないのだ」という「唯物」論へと行きつく。
人類の持つ「精神作用(識心)」ですらも、化合物の有機反応がちょっと複雑になっただけなのだと。
つまり、「心」も「物」なのだという。
この「唯物」論を受けて、路伽耶(ローカーヤ)派が登場した。
路伽耶派の主張は、以下の通りである。
- 天地はもちろん、草根木石から人間、さらには精神作用に到るまで、「物質」でないものはない。
- 万物がひとしく「物質」である以上、発生し、変化して滅びるという「物理法則」から逃れられるものはいない。(人間のタマシイもまた同様)
- 自然の摂理=物理法則である。
- 不自然(=反物理的)な行為・思想は成立しない。
- 全ては「あるがまま(=なされるがまま)」にてあるべし。
そして仏教はこれを「順世外道]として貶斥した。
「なんでもかんでも「なりゆき任せ」だなんて、キサマそれでいいと思ってんのか!?」というわけである。
西暦400年代後半に中国で仏教史を整理した劉虬(りゅうきゅう)という人は、「路伽耶が言わんとすることは、我が国における老荘の主張と酷似している。」と言ったそうだ。
順世外道のエピソードをひとつ紹介しよう。
昔々、「世の中すべてなりゆき任せ」と主張する学者がやってきて、あちこちのお寺にケンカを売ってまわったことがありました。
彼は、世の中がいかに「なりゆき任せ」であるかを40条の箇条書きにした紙をお寺の門に貼り付けて、こう高言したのです。
「さぁさぁ、オレ様のこの素晴らしい理論を見るがいい。
もし一箇所でも論破することができるヤツがいたなら、オレ様の首をくれてやるぜ!
さぁどうした?かかってこいよ、オラオラ!!」
何日かが過ぎましたが、皆遠巻きに見るばかりで、誰も議論しようとする人はいません。
学者はすっかり勝ち誇った気持ちになりましたが、ふと見ると、寺から若い掃除係の修行僧が出てきました。
その掃除係は、学者の目の前で張り出してある紙を引き剥がすと、ものも言わずにビリビリに破いて地面に叩きつけ、土足でガンガン踏みにじり始めたではありませんか!
学者は大激怒して言いました。
「うわーっ!何をするんじゃ!!
オマエ、何者だ?!」
青年は答えました。
「オレ様は、提婆宗だ!!」
それを聞くと、学者は何も言わずにスゴスゴと帰っていったということです。