好雪ひらひら
【夢魔の書】月の夜
1996.12.26
辺りが暗闇に包まれる頃、私は目的地である山奥の温泉宿に到着した。
長時間の運転で疲労した私の眼に、闇夜に浮かび上がる暖かそうな橙色の宿の灯りはいかにもやすらかなものに映り、秘湯への期待は否が応にもたかまるのであった。
砂利をタイヤで踏みしめながら入り口に車をつけると、中からいかにもな感じの仲居さんが出てきて離れの駐車場に停めてくれという。
聞けば入り口より500メートルほど下がった所ではないか。
言われるがままに引きかえし、先程登ってきたばかりの曲がりくねった山道をしばらく下りると左手に確かに空地があった。
駐車場とは言っても単に斜面を切り開いて整地しただけの簡単なもので電燈すらなく、月明かりだけを頼りに車を停めた。
手拭いを手に車から降り、再び徒歩で温泉宿を目指す。
なにやら不便だが、これが「ひなびた」風情というものなのだろう。
さすがに都会と違って澄んだ山の空気が心地よい。
これで先程来私のゆく道を煌煌と照らしてくれている月明かりさえなければ、木立ちの合間を縫って満天の星空を見ることができたのだろうと思うとやや残念な気もするが、それでは照明が全くない山道などとても恐ろしくて歩けやしないので良しとしよう。
それにしても照明ぐらいつければよいのに。もっとも普通は明るいうちに到着するようにするんだろうな。
他の客の姿が全く見えないのも当然といえば当然か。
と、前方から何やら走ってくる音がする。
疾走するそれは私の横をえらい剣幕ですれ違っていった。若い男女のようである。どうも只事でない。逃げる女を男が追っているようだった。
見過ごせないので追いかける。
女は道の脇の林の中に逃げ込み、男もそれを追って飛び込んでいった。
私が追いついた時、二人は暗い木立ちの中で取っ組み合っていた。男の手には何やら光るものが握られている。
ナイフのようだ。これはいかん!
「やめろ!何をしているんだ!」
私は男に跳びかかると叫んだ。やっとのことで取り押さえ、顔をこちらに向けさせた。木立ちを抜けてきた月光があたり、男の顔が白く浮びあがる。
「!!」
私は息を呑んだ。そこには端正かつ柔和な青年の顔があった。あれだけ大たちまわりを演じていたにも関わらず、彼の顔には「怒り」や「憎悪」といったものが全く無かったのだ。
メタルフレームの眼鏡をかけた青年の顔は優しく、微笑さえ浮かべ、「美しい」と思えるほどの爽やかな好青年だった。
一瞬にして毒気を抜かれた私は困惑し、うずくまって震えている女性の方を見た。
質問しようとするのだが、女性はすっかり怯えてとても話のできる状態ではない。
仕方がないのでともかく男を彼女から離れたところに連れて行くことにした。
茂みの向こうに何やら縁側のある建造物が見えたので、そこまで男を引き連れて行って座らせた。
白く冷たい月明かりに照らされた彼は、背が高く肩幅も広いスポーツマンタイプ。歳のころは二十代半ばぐらいであろうか。
非の打ち所の無い好青年である。
「いったいどうしたっていうんだ?」私は尋ねた。
「話がしたかったんです。」青年が微笑みながら答える。
「話?」
「ええ、誰でもいい、とにかくボクの話を聞いて欲しかったんです。」
それだけで何故女は逃げ、彼はあんな剣幕で追いかけなければならないのか。
特に暴れたり逃げたりする様子でもなかったので、そこに座っているように言うと、女性のところに戻った。
彼女はまだ震えていたが、先程よりは落ち着きを取り戻したようだった。
男はただ貴方に話を聞いて欲しいだけだと言っていると伝えると、彼女はかぶりを振りながら、とてもそんなことは恐ろしくてできないと言った。
何がそんなに恐ろしいのかと尋ねると、とにかく彼が恐ろしいのだと言う。
いや、やさしそうな青年じゃないか、というと彼女は私の顔をじっと見据えて言った。
「とんでもない。貴方にはあの恐ろしい顔が見えないの?」
「恐ろしい顔?」
「ええ、化け物よ!」
彼女が言うには、男の顔は完全に潰れており、肉がえぐれて血みどろのその様はとても生きた人間のものとは思えない、とのこと。
振り向いて離れたところに座っている青年を見てみる。
やさしそうな青年だ。私の心には好感しか伝わってこない。
私には普通の人間にしか見えないことを伝え、もう一度明るいところでよく見て欲しいとお願いして、いやがる彼女を私の後ろに従がえて彼の座っているところへ戻る。
青年のいるところへ戻り、後ろを見ると彼女がついて来ていないではないか。
戻ってみると、木立ちの暗がりに隠れて震えている。
どうしたのか尋ねると、やはり彼の顔は破壊されているという。
青年のほうを見る。やはりそんなふうには見えない。
仕方なく彼女を残して青年のところにひき返して言った。
「彼女は君と話したくないそうだよ。」
「そうですか。」
青年は残念がるどころか幸せそうな笑みさえ浮かべて、爽やかに言った。
「でも、貴方と話せたので落ち着きました。」
言い終わると同時に彼の姿が薄れ始めた。
白々と冴えた月明かりの中で、彼の姿は次第次第に透きとおってゆき、終には瞬きもせず見つめる私の目の前で、爽やかな満足の微笑みを残して消えてしまった。
完全に。
私の心に恐怖が芽生えたか?
否、やはり私には彼が化け物だとはとても思えなかった。
当初の目的であった温泉宿にひき返し、玄関で靴を脱ぎながら先ほど起きた出来事に思いを馳せていると、にわかに外が騒然とし、扉を開いて団体客と思しき一団が入ってきた。
皆、一様に疲労困憊した表情を浮かべている。
女将に何事か尋ねてみた。
「何かあったんですか?」
「この下の峠で団体バスとバイクの接触事故があったらしいの。急カーブが多くて見通しが悪いからねぇ。」
「大丈夫だったんですか?」
「ええ、団体さんのバスは山側に突っ込んだので皆さん軽い怪我ですんだらしいんですけれど、バイクを運転していた学生さんは谷側のガードレールに激突して・・・」
「お亡くなりになったんですか?」
「ええ、何でもガードレールの端が顔に突き刺さっていたらしいですよ・・・」
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