別訳【般若心経】
The Heart of Pure Wisdom.
2011.2.6
チベットで発見したこのお経、多分「般若心経」だと思うので、直訳してみた。
最大のリスペクトを捧げる。
あらゆるしがらみから自分を解き放つ、真実の知恵の素晴らしさに。
この世の全てのものごとには実体がなく、いまさら発生しないと同時に滅びることもない。
それに気づくことができた時、真実の知恵は自ずから光を放ち、この世の全てを照らし尽くす。
真実の知恵こそは、ありとあらゆるものの母。
私もまた、それによって存在しているのだ。
そのことをズバリ指摘してくださったブッダに、最大のリスペクトを捧げる。
・・・こんな話を聞いた。
ある時ブッダは、マガダ国の首都ラージャグリハにある岩山のひとつ、グリドラクータの石窟に、多勢の弟子たちとともにこもっていた。
弟子たちは皆、ブッダが講義をしてくれることを期待していたのだが、ブッダはただ安らかな表情を浮かべて、じっと座っているばかりであった。
すると突然、弟子のひとりであるアヴァロキテ・イシュバルに強烈なヒラメキが訪れた。
「そうか、そうだったのか!! 我らが常々苦しめられ、逃れたいと願ってきたものは全て、最初から実在などしていなかったのだ!!」
それを聞いた若手のエース、シャーリプトラは思わずツッコミを入れた。
「ちょっ・・・センパイ! いきなり何を言い出すんですか! いったいそれは、どういうことなんですか?」
アヴァロキテ・イシュバルは答えた。
「ああ、シャーリプトラ、びっくりさせてすまなかった。
実はな、私は気づいてしまったんだよ。
我らが常々苦しめられ、逃れたいと願ってきたものは全て、最初から実在などしていなかったということに。
そして、男女を問わず、あらゆるしがらみから自分を解き放ちたいと願う者は皆、それに気づくべきなんだ。
あれこれと余計なことを考える必要など、なかったのだよ。
いいか?
例えば、この目で見たもの全てを無批判に信用してよいかというと、決してそんなことはない。
とはいえ、信憑性の有無に関わらず、この目は実際に様々なものを見る。
つまり、この世の真実と目に映る姿との関係は、その程度のものでしかないということだ。
今、視覚を例にひいたが、他の全ての知覚はもちろんのこと、認知や認識の作用ですらも、また同じことなのだ。
なぁ、シャーリプトラ、わかってくれるかな?
我らが常々苦しめられ、逃れたいと願ってきたものが、全て最初から実在などしていなかったということは、つまり、それに対応するために用意した様々なルールはもとより、その他全てのルール・規則といったものもまた、全て最初から実在などしていなかったということだ。
この世の全てのものごとには実体がないのだ。
だから、いまさら発生しないと同時に滅びることもない。
何かを外から持ってきてくっつけることなどできないし、逆に取り去ることもできない。
この宇宙の総質量は最初から決まっており、絶対不変だからだ。
シャーリプトラよ、そういうわけだからだな、視聴覚や触覚、嗅覚や味覚といった知覚作用はもちろん、それらの刺激によって引き起こされる反応も、刺激を受けて反応すべき本体も、つまり、認知や認識の作用ですらも最初から実在などしていなかったということになるのだ。
何もわからないことなどなく、わからないことが無くなることもなく、年老いたり死んだりすることなどなく、年老いたり死んだりすることが無くなることもない。
苦しみも、苦しみを受ける肉体や精神も無く、苦しみや、肉体や精神が苦しみを受けることをなくすこともできない。
外部から付け加えることができるような知恵などなく、どんな勉強や修行をしようとも、そこから何も得ることなどできはしないし、逆に失うこともない。
シャーリプトラよ、我らが尊敬している偉大なる諸先輩方が、何ものもおそれず、カンチガイに陥ることなく、常に明るく前向きに行動できた秘訣が、まさにここにあるのだ。
現在や過去はもちろん、これから先に現れるであろう未来のブッダたちも皆、ひとりの例外もなく、このことに気づいているハズだ。
そして、誰もが皆、このことに気づくべきなんだよ!
このことに気づいたことで得られるパワーは神に等しいほど絶大なのだから。
要約して言うなら、つまりこういうことだ。
進め! 進め! 全てを乗り越えて進め!
乗り越えて渡りきれ!!
それが人生だ!!
シャーリプトラ! 我らを苦しめてきたあらゆるしがらみの幻影は、いま打ち破られた!!
立派に人生をまっとうしたいと願う者たちよ、進め!!」
それを聞いたブッダはすっくと立ち上がり、アバロキテ・イシュバルの意見に賛成した。
「ナイス! グッジョブ! よくぞ言った! まったくその通りだ!! オマエの言ったとおり、みな進むべきなのだ!!」
それを聞いたアバロキテ・イシュバルやシャーリプトラをはじめとした集会参加者全員、また、いつの間にか集まってきていた大勢の神やアシュラたちは皆、喜びの声をあげたのだった。
以上で、真実の知恵の心臓部ともいうべき話を終わる
西蔵文直訳原文
「般若心経西蔵文直訳」
かな遣いを改め、適宜句読点を補い、改行を加えた。
般若心経西蔵文直訳 明治33年3月26日 能見寛
凝念讃絶智慧到彼岸、不生不滅虚空の性、各々自明智慧境界。
三世仏母に帰命す。
印度語「婆伽縛(*口+縛)底般若波羅蜜多非哩陀耶(ヴァガヴァティプラジュニャパーラミターフリダヤ)」
西蔵語「世尊(勝者)智慧の彼岸に到ることの心(呪)也」
世尊、智慧の彼岸に到ることに帰命す。
如是我は聞けり。
一時に於て、世尊は王舎城鷲峰山中に比丘の大弟子と菩薩(覚有情)の大弟子と倶に住し給いき。
彼の時、世尊は深き光輝と名づくる法門の三昧に寂定に住し給えり。
又、彼の時、菩薩摩訶薩聖観自在は、智慧の彼岸に到る深き行いを完全に見給い、彼五蘊等はまた自性によりて空なりと完全に見給えり。
爾時覚者(仏)の威力によりて、具寿なる舎利子は菩薩摩訶薩聖観自在に是の如く白しき。
「善家の男子よ、若し智慧の彼岸に到る深き行を行せんと欲する彼は、云何に教えらるべきや?」
是の如く言いければ、菩薩摩訶薩聖観自在は、具寿なる舎利子に是の如く告げ給えり。
「舎利子よ、善家の男子、もしくは善家の女子は、若し智慧の彼岸に到る深き行を行せんと欲する彼は、是の如く完全に見るべし。
彼五蘊等はまた自性によりて空なりと、清浄に(随て)見ざるべからず。
色は空なり。 空即(そのもの)また色なり。 色より、また空そのもの(即)は別に無有なり。 空そのものより、また色は別に無有なり。
是の如く、受と想と行と識等は空なり。
舎利子よ、是の故に、一切法は空そのものにして、相そのものは無し。
不生不滅、垢無く、垢の除くもの無く、減無く、増無きなり。
舎利子よ、是の故に、空そのものの中に色無く、受無く、想無く、行無く、識無く、眼無く、耳無く、鼻無く、舌無く、身無く、意無く、色無く、声無く、香無く、味無く、触無く、法無きなり。
眼の界無く、乃至意の界無く、意の識の界に至るまでまた無きなり。
無明無く、無明盡無く、乃至老死無く、老死盡に至るまでまた無きなり。
是の如く、苦と集と滅と道無く、智無く、得無く、非得もまた無きなり。
舎利子よ、是の故に、諸覚有情は得無きが故に智慧の彼岸に到ることを持住して、心に暗無くして怖畏無く、顛倒を真に脱して、大苦悩より脱すること(大涅槃)の究竟に到るなり。
三世に安住せる一切覚者(仏)もまた、智慧の彼岸に到ることを持して、無上清浄円満の覚(菩提)を明らかに成就せる覚者となり給えり。
此の故に、真実に知るべきなり。
智慧の彼岸に到る所の呪、大明の呪、無上の呪、無等等の呪、一切苦を能く除すべきの呪、虚しからずして真実に知るべきなり。
智慧の彼岸に到ることの呪を説いていわく、達陀耶多、?(*口+奄)掲諦掲諦波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提娑婆訶(タドャーダー、オーン、ガテーガテーパーラガテー、パーラサンガテー、ボードヒスワーハー)。
舎利子よ、菩薩摩訶薩によりて、是の如く深き智慧の彼岸に到ることを行ぜざるべからず!」
爾時、世尊は定より起ちて、菩薩摩訶薩聖観自在に善哉と称賛し給えり。
「善哉! 善哉! 善家の男子よ、其れは其の如し。 云何に、汝によりての教は其の如し。 智慧の深き智慧到彼岸を行ずべきなり!」
諸如来はまた、随喜し給えり。
世尊は是の如く告げ給いしにより、具寿なる舎利子と、菩薩摩訶薩聖観自在と、彼等一切の衆会と、天と、人と、阿修羅と、乾闥婆と、倶なる世間は喜びつ、世尊の(によって)説を明らかに称賛せり。
世尊、智慧の彼岸に到ることの心(呪)と名づくる大乗の経、完結す。