別訳【無門関】
無門禅師による前書き
いいか、オマエたち。
仏たちの説く「究極の真理」ってヤツは実にキッパリとしたもので、「入る」とか「入らない」とかを超えたところにある。
したがって「門」などあるわけがない。
そもそも「門」外から持ち込んできたものを「伝来の宝」とは呼ばないだろう?
よそからかっぱらってきたものは決して身につかないということを知るべきだ。
今回この場にあれこれと昔話を詰め込んではみたが、これこそ実に「言わずもがな」「やらずもがな」というヤツなんだ。
頼むから「これを読んだら何か得るものがある」などというカンチガイをしないように。
夜空に浮かぶ月を棒で叩き落そうとしたり、靴を履いたまま足の裏のかゆみを掻こうとしたりするようなもので、まぁ、言ってしまえばまるっきりムダなことだ。
この書物にしたところで、オマエらに「それでもよいから!」などと泣いて頼まれて、仕方なくその場しのぎのでまかせを四十八回もするハメになったので、この際まとめて「無門関」と名づけたまでのこと。
もとからでまかせに話したものなので、それぞれの長さもマチマチだし順番などに深い意味があるわけでもない。
そういうわけだから、この書物は「究極の真理を知るためなら死んでもいい」などという物好きなヤツにしかオススメしない。
さぁ、八面六臂の魔王を一撃で倒し、歴代の仏教伝承者三十四人(インドに二十八人、中国に六人)に命乞いをさせるぐらいの威勢のあるヤツはおらんのか?
いるなら出てきてワシと勝負しろ!
ただしあらかじめ注意しておくが、もし一瞬でもためらったなら、それはまるで小さな窓の外を競走馬が全力疾走で通り過ぎるのを見るようなもので、マバタキする間もなく過ぎ去ってしまうことだろう。
わかるか?
「道」への入り口としての「門」など、ありはしない。
また、この世のあらゆる場所で「道」でないところなどない。
どこをどのように行こうとも、それらの全てが「道」なのだ。
そこのところがつかめたら、ゆけ! ひとりでどこまでも。