別訳【富永仲基】
翁の文(抄):1
2006.7.9
今の日本では、神・儒・仏の三つの教えが主流のようであるが、なんのことはない「神事・儒事・仏事」ばかりであり、おおよそ「神道・儒道・仏道」といえるようなものではない。
例えば、隣り合った家の味噌汁の具が必ずしも同一でないように、ところ変われば品が変わり、時代が変わればまた変わるのである。
今現在、すぐ近くにあるものですら、完全に真似るのが困難であるのに、中国やインドなどという遠く離れた国の風俗を、そっくり真似しようなどというのは、アホのやることである。
ましてや、「神代の昔」の事柄を今の世の中でそのまま実施しようなどというのは、これはもう極めてバカタレとしか言いようがない。
だいたい、宗教・学問でも政治でも産業でもなんでもそうだが、何か自分の「オリジナリティ」を打ち出そうとする時には、何でもよいから既にあるものを持ち出してきて、それとの違いを声高に叫ぶというのが、今も昔も変わらない常套手段である。
「私のこの○○は、あの××なんかとは、△△の点において格段に優れているのであり、すなわち、あいつはダメで私のほうが素晴らしいのだ!」とかいうヤツだ。
そして後世のマジメな人たちは、そのおかげで大いに混乱させられることになるのである。」
大昔のインドの様々な宗教が目指したものは、それぞれ表現の違いはあるものの、要するに「こんなしょーもない人間界ではなく、苦しみのない「天」に生まれ変わりたい」ということであった。
そのお陰で、お釈迦様が生まれる頃までには、既に32もの異なった「天」が出来上がってしまっていた。
お釈迦様も最初はそれらの教えを学んだのだが、この上、また新しい「天」を持ち出してきても「いまさら」感があるばかりで、イマイチ、ウケそうにもなかった。
それが、彼が「新機軸」を打ち出さざるを得なかった、真の理由なのである。
当のお釈迦様でしてからがそれなのであるから、現在の仏教諸派が、一様に「仏教」を名乗っておきながら、それぞれに全く違う経典を「最上」として、その見解がてんでバラバラなのも、きわめて当然のことなのである。
そんなわけであるから、現在、それぞれの宗派・門派が、その優劣を競い、互いに罵りあっているようなのは、おおよそ悟りからは程遠いものと思わざるを得ない。