別訳【富永仲基】
翁の文(抄):2
2006.7.9
そもそも、孔子が「尭」や「舜」などという、大昔の聖人の話を持ち出してきたのは、当時、春秋時代の「五覇」(斉の恒公や晋の文公など5人の王様)の話でもちきりだった人々を振り向かせるためであった。
世子が「人間の性には善と悪がある」と言えば、告子はそれを受けて「人間の性には善も悪もない」と言い、それを聞いた孟子は「人間の性は善である!」と言い、またそれを聞いた荀子は「「人間の性は悪である!」などと言う。
要するに、皆それぞれの「自説」のキャラを立たせたかっただけなのである。
ところが、それぞれの言葉を真に受けて、「孔子の教えを正しく受け継いでいるのは、孟子だけだ!」とか「孔子の道は先王(尭・舜などのこと)の道にのみ通じており、子思も孟子もみんな邪道!!」とか、見当はずれもはなはだしい議論に血道をあげている。
死ぬまでやってろ!という感じである。
私はなにも、釈迦や孔子が「奇をてらいたい」というだけの目的で、それぞれの主張を行なったと主張したいのではない。
宗教は、枝葉末節ではなく、その根幹を理解すべきではないのか、と言いたいのみなのだ。