別訳【井上円了】妖怪学
夢とはなにか
2010.8.22
第五心理学部門第五章「夢の説明」より。
夢はなぜ発生するのか?
そのナゾは、「唯識論」以外の手法では説明不可能だ。
「唯識論」とはつまり、「この世の中のあらゆる事物や現象は実在するのではなく、存在するように「感じている」だけに過ぎない」という極めて根源的で破壊力の強い理論である。
人間には、見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりという、いわゆる「五感」があるというのは、皆疑わないところであり、「寝ている」というのはつまり、「五感」が休眠した状態のことである。
「唯識大意」という論文中では、「夢」について次のように述べる。
『各種感覚・知覚器官、つまり五感そのものは夢を見ない。
そもそも覚醒時に見たり聞いたりしている五感のハタラキですら、五感そのものは認識していない。
五感の刺激を受けてそれらを総合的に情報処理している第六の意識層というものがあり、そこがもっぱら思考を司っているのであるから、「夢を見る」経験は、つまりこの「第六意識」の思慮分別能力あってのことなのである。
五感が休眠し、かつ夢を見ていない時は、この第六意識のハタラキも失われ、「意識」として認識することが不可能な第7層「末那識(まなしき)」と第8層「阿頼耶識(あらやしき)」のみ活動を続けている状態といえる。
だからつまり、「夢」を見させているのは、その第7層のハタラキなのである。
第7層は別名を「伝送識」とも呼ぶ。サンスクリットで「アーダナ(阿陀那)」と呼ばれているハタラキのことなのだが、「アーダナ」とは「伝送」という意味だからである。
これが何を「伝送」しているのかというと、無意識下の最下層に横たわる第8層「阿頼耶識」からの信号を、思慮分別層である第六意識層に伝えているのである。
この第7意識層の存在は、夢も見ないで眠っている時に呼びかけられても、「自分が呼ばれている!」と気づくことができることで知ることができ、それ故に「執我識」とも呼ばれる。
常識的な思慮分別が失われているにもかかわらず「自我」を認識し続ける。
この状態で何らかの刺激(身体の内外を問わず)を受けると、「夢」が発生するのである。
夢の中ではとてもハッキリと筋道の通っていた事柄が、目覚めてから考えてみると支離滅裂であったりするのは、つまりそれが原因なのである。
『止観』の第五巻には、「心があるから夢を見るのか?眠るから夢を見るのか?」というテーマで問答がなされており、結論は次のようなものである。
『もしも「心があるから夢を見る」というのであれば、「夢」はつまり、眠っていない時にも見ることができるということになる。
「眠るから夢を見る」というのであれば、死人もまた「夢」を見ていることであろう。
「眠りと心が合わさって夢を見る」というのであれば、眠って夢を見ないことがある説明がつかなくなる。
それでは「「眠り」と「心」を離れて「夢」がある」などと言ったら、「夢」そのものが独立して存在することになってしまってわけがわからなくなる。』
雲棲禅師は「竹窓随筆」の中で次のように述べている。
『「夜寝ている時に見る夢は大半が現在の生活に関連したことばかりで、前生とかそういったものを夢に見ることがなかなかできないのは何故でしょうか?」などと尋ねてくるアホがおるが、そもそも記憶にないものを夢に見ることは不可能じゃ。
伝説上の聖人たちでさえ自分が生れ落ちる瞬間だけはブラックアウトしているというのに、我々みたいな凡人がそれを超えて生れ落ちる前の記憶を保てるわけがないじゃろう!
だのにオマエたちときたら、全員がん首そろえて、日中は愚にもつかないあれやこれやで思い悩み、夜は夜で日中のくだらない出来事にうなされてやがる。
もう一度言うが、全く経験したことのない事柄を夢に見ることは絶対に不可能じゃ。
つまり、「夢」とは「現実」と一体不可分なのじゃ。
わかるか?
こと「思考・思索」のハタラキに関して言うならば、「睡眠時」と「覚醒時」の区別などないのじゃ。
起きている時は頑張ってしっかり考えろ!
寝ている時も、同じようにしっかり考えろ!!』