別訳【内藤湖南】
学変臆説 4.彼岸、遠からじ
2009.1.2
東洋に伝わる古代の学問を研究した結果、太古の昔に中央アジア高原で発生した「拝天教」こそが、現在世間で行われている様々な宗教のおおもとであることが判明した。
これはつまり、なんだかんだと言ったところで「人間たちの考えることなど、それぞれにそんなに大した違いはない」ということを示している。
人類は大同団結することが可能、というか、するべきなのだ。
そして、その時は近づいている!
各種の産業がそれぞれに孤立したまま、いつまでもやっていけるわけがないし、モノやカネだって流通してナンボではないのか。
つまりもう、とっくに世の中は「フロー」の時代なのだ。(資本や資産は言うに及ばず)
そして学問は系統ごとの再編成が始まり、ドイツ哲学者たちの論法は組織化が進んでゆく。
いわゆる「進化論」が、信仰を始めとした「古いもの」を手当たり次第に打ち壊してしまったことは間違いないが、その徹底的な「破壊」は、分裂・分散というよりはむしろ、「大統一」を打ち立てるための「地ならし」としての意味があった。
それまでは「人間は人間」、「サルはサル」、「イヌはイヌ」というように、種族はそれぞれの壁を越えることなく、昔も今も別のもののように思われていたが、「進化論」は、それらの壁をとりはらい、元来ひとつのものから生まれたことを明かした。
人間とサルはもとより、動物と植物、植物と鉱物の間を「ひとつながりの進化の鎖」でつなぎ合わせてしまったのだ。
そういう意味では、「進化論」は「分裂・分散」と「大統一」の橋渡しをするハタラキを、学術の世界においては発揮したといえるだろう。
そのような流れが社会思想に及ばないハズがない。
「三権分立」?
「個人の自由」?
そんなトンデモ説は、とっくにゴミバコの底にうずもれつつある!
「政教分離」!? 逝ってよし!!
「星霧(ネビュラ)理論」が天体運動に統一的な説明を与え、「進化論」の発達が科学全般の統一をうながす。
「真」「善」「美」を求める気持ちは、誰もが同じなのだ。
「東側」だとか「西側」だとかの偏狭なセクショナリズムを捨て去り、手を取り合って進むならば、必ずや「大統一」の偉業は達成できるであろう!
ただ、カンチガイしてはいけない。
この場合の「大統一」とは、決して「ひとつの強大な専制・独裁国家」ができあがる、ということではないのだ。
「中央に大きな幹があって、そこからたくさんの枝葉が伸びている」という類のものではなく、無数のクリスタルが世界中に満遍なく配置された「光の網」のようなものになるハズだ。
天帝インドラの網、いわゆる「天網」は、あらゆるものを映し出す宝玉(クリスタルボール)を光ファイバーでつなぎ合わせたものであった。
個々のクリスタルはもちろん独立した美しい玉であるのだが、互いに相手を正確に映し出すもの同士がつながれているので、無数にある玉のどれかひとつにでも情報が入ると、それは瞬時にして全ての玉に伝わる。
これこそまさに「天網」であり、この融通無碍な姿こそが、我らの世界「大統一」後の理想の姿なのだ。
各人が「自我」の殻の中に閉じこもることをやめ、「アイツはオレに何をしてくれるか」などというのではなく、「オレはアイツに何をしてやれるか」と互いに思いあうこと。
それこそが真の「平等」だ。
それができた時、本当の「平和」は訪れるのだ。
そしてそれは、今まさに来ようとしている。
もうすぐだ。
もうすぐ「渡り終わる」時が来る!
今の世界情勢は、例えるならば「始皇帝が統一する前の中国」、また「ローマ帝国が統一する前のヨーロッパ」のようなものだ。
そして今の思想界の情勢は、「董仲舒(とうちゅうじょ)がまだいなかった頃」、また「キリスト教がローマ国教として取り入れられていなかった頃」によく似ている。
・・・似ているとは言っても同じではないので、今後の世界情勢が「始皇帝統一後の中国」や「ローマ帝国統一後のヨーロッパ」のようになるわけではない。
だから今後の世界が「儒教とキリスト教を足して2で割った」ようなものになるかというと、なるわけないのである。
冒頭述べた通り、「螺旋(スパイラル)」は決して「円」ではないし、「直線」でもないのだ。
「天」は循環運動するのだが、それは決して過去と全く同じことが何度も起こるということを意味しない。
「すべては移り変わる」のだ。 スパイラルを描きながら。
・・・さて、実は私にはこの他に「思想界の中心変動について」まとめた考えもあるのですが、今回は既にあれこれと書き過ぎてしまったようなので、また今度にさせていただきます。