別訳【維摩経】
第32話 維摩、「煩悩」の効用を語る
2007.3.31
文殊:「・・・すみません、ちょっと混乱してきました。
もうちょっとわかりやすい譬えでお願いします。
「究極の悟り」を得るための原動力って、結局のところ何なのですか?」
維摩:「必ず死ぬと決まっている身体と、死にたくないと願う心を持つ、それこそが原動力じゃ。
限りのない欲望、怒り、世の中に対する4つの大きなカンチガイなどが原動力じゃ。
5つの感覚や6つの精神活動、7つの意識レベル、8つの誤った認識、9つの悩み、10の悪行。
これらの全てが「究極の悟り」を得るためには欠かすことのできないものなのじゃ。
まとめていうなら、「62の誤った見解と一切の煩悩」こそが、「仏となるべき種」なのじゃ!」
文殊:「・・・それはいったい、どういうことでしょうか?」
維摩:「例えばじゃな・・・
「完璧に悟りきってしまった人」は、「悟りを求める心」すら失ってしまうということじゃ。
もはや「他人を救う」などということには興味がなくなるからじゃ。
澄み切った高原には蓮は咲かない。
低く湿った汚泥の中でこそ、蓮の花は美しく咲くことができるのじゃ。
植物の種を空中に植えても芽は出ない。
しかし肥溜に放り込んでおけば、やがて芽を出すじゃろう。
わかるかな?
まず、びっくりするほどトンデモない思い違いをして、ありえないほど増長しまくる。
するとあら不思議、次の瞬間には「究極の悟り」を求める気持ちが生まれてくる。
そういうもんなのじゃ。
もう一度言おう。
「究極の悟り」の境地には、「一切の煩悩」を通じてしか到達できないのじゃ!
深海に眠るという宝珠の噂を聞いたことはないかな?
それをゲットするためには、やはり海にもぐるしかないのじゃよ。
「全知」という至宝、それを得るためのたった一つの方法は、「煩悩の海」に飛び込むことなのじゃ!!」
それを聞いたマハーカッサパは、感動して言いました。
「素晴らしい!まったくみごとです!!
いやはや・・・維摩さんのおっしゃるとおりだと思います。
我らがこのところすっかり伸び悩んでいる理由が、今こそわかりました。
汗や埃にまみれて苦労している一般大衆、彼らこそが真の「仏の種」なのですね!
間違いや誤りを犯した人々、彼らこそが「究極の悟り」に到達する資格を持っているのですね!
・・・道理で修行によって煩悩の束縛を断ってからこっち、どうもしっくりこなかったわけです。
目がつぶれれば「色や形」のことがわからなくなり、耳がつぶれれば「音」が理解できなくなるようなものですね。
我らは煩悩を断ってしまった。
そんな連中では「究極の悟り」に向かう役には立たないのですね・・・」