JAPANESE THOUGHT

井上円了

別訳『妖怪学』『外道哲学』

哲学と妖怪研究を結びつけた明治の思想家。迷信や思い込みを問い直す「妖怪学」と、仏教以外の異説・諸思想を研究する「外道哲学」を読みます。

1858–1919 明治 哲学・妖怪学

怪異をほどき、人の心を照らす。

井上円了は、哲学の眼で妖怪や迷信を研究し、その背後にある自然現象と人間心理を明らかにしようとしました。本ページでは「妖怪学」六篇と「外道哲学」四篇を収録します。ここでいう「外道」は、人の道を外れた邪悪な思想という意味ではなく、仏教の立場から見た仏教以外の教え、すなわち異説・諸学説を指します。

YOKAI STUDIES · 01

【妖怪学】前書き

2010.08.07

「妖怪学講義」より

前書き  by 哲学館主 井上円了

さて皆さん、この広大なる現実世界の頂点に君臨し、絶妙の光を放って全てを成り立たせているものがあります。

いったいそれは、何だと思いますか?
・・・そうですね、そんなものわかりきったことですよね。

それはまさに、人間そのものであります。
つまり、個々の人間の認識能力こそが、森羅万象を作り出しているということです。

例えるならば、心というランプ(ロウソクでも可)にともされた灯火のようなものでしょうか。

そしてその灯火を輝かせ続けるための燃料は何かといえば、それは学問によって身につけた知識なのであります。
知識が多く、深くなればなるほどその灯火は輝きを増し、より遠くのものまで照らし出せるようになるでしょう。
この文章を書いている私はもちろん、これを読んでいる貴方だって、既にその灯火がなかなかいい感じに燃え盛っているのです。

これからも、もっともっと輝かせ続けるためにはどうしたらよいのでしょうか?
・・・とまぁ、実はそれが、私が「妖怪学」などという学問を打ち立てようと思い立った動機なのであります。

今まさに明治維新が成立し、我が国の近代化は一気に進みつつあります。
軍事・民事ともに、その技術は目覚しい発展を遂げようとしているのです。
海には動力船が浮かび、陸には鉄道が敷設され、全国くまなく電信・電灯線が設置されました。
2、30年前に比べたら、これはもう、まるで別世界のような変わりようです。
あらゆるものごとが、見違えるように便利になりました。
しかしながら、世間を見れば依然としてバカモノはバカのまま、わけもわからず苦しむばかり・・・
つまり、このところの近代化はあくまでも物理的な側面のみのことであり、人間の心は旧態依然としたままであるということです。

こういったバカモノどもの心の山奥まで鉄道を敷設し、知識の電灯をともしてやって初めて、明治維新は本当に成立したといえるのだと、私は考えるのです。

そのためにはどうしたらよいのでしょうか?

そうです。今こそ「妖怪学」の出番なのです!
私の唱える「妖怪学」とは、まさに心の中に新しい電球をとりつけるためのものなのです!

さて、それではその「妖怪学」とはいったい何ものでしょうか?
ひとことで言うなら、「妖怪の原理を研究して、その現象を解明するための学問」ということになります。

それでは「妖怪」とはいったい何ものでしょうか?
ある人は「妖怪とは幽霊のことだ。」と言い、またある人は「いやいや、天狗こそが妖怪だ。」と言い、「いやいや、キツネやタヌキが人を化かすのが妖怪でしょ?」、また「鬼神の類が人間に取り付くのを妖怪って言うんだよ!」などと言う人もいます。

その他、熱さを感じない火、奇妙なかたちの植物なども妖怪だと言われていますが、それらは皆、妖怪が起こす現象の話なのであって、「妖怪」そのものの説明にはなっていません。

さぁ、それでは「妖怪そのもの」とはいったい何ものか、ということになると、これはなかなかハッキリとした説明をするのは難しく、「異常」とか「変態」とか「不思議」とか言ってみたところで、結局のところ「妖怪は妖怪だ」という域を出ません。

この論法を用いるのであれば、まず、「正常」とはどういうものなのか、「思議」とはどういうことなのかをちゃんと定義する必要があるのです。

「それじゃ、結局「妖怪」が何ものかなんてわかりっこないんだね!」ということにしてしまえば、それまでの話ではありますが、それじゃあまりにも情けないので、なんとか「妖怪」そのものをじっくり研究して説明できるようにしたい、というのが、つまり「妖怪学」であるというわけです。

世間の人たちを見ると、要するに「自分の知らない、わからない」ことがらを「妖怪」と呼んでいるようです。
そういう意味では、ある人が「妖怪だ!」と思うものは、別の人にとってみれば「妖怪でもなんでもない」ありふれたものとなる可能性があります。

つまり、何も知らないバカモノにとっては、見るもの聞くもの全てが「妖怪」となるわけです。

学者たちはそこら辺のバカモノよりはものごとを知っているわけであるので、そこら辺のバカモノが「妖怪だ!」というものをとらえて、「妖怪でもなんでもない!」ということが可能です。

しかし、それでは学者たちにとっては「妖怪など全く存在しない」のかというと、全然そんなことはないのです。

そこら辺のバカモノが「妖怪は存在する」と考えるのは、例えれば舟に乗って移動しながら岸を見て、「陸地が動いている!!」というのと同じです。

学者はそれを聞いて大笑いするわけなのですが、なんとこれは太陽が上り下りするのを見て、「地球は動かない!」というのと同じで、レベルの違いこそあれ、大同小異です。

そもそも学者たちが「実在する」という前提で研究にいそしんでいる事物もまた、実に「妖怪」だからです。

空を見上げれば太陽・月・星が並んでいますが、これらがなぜそうであるのかを完全に説明することは未だにできておらず、全て「妖怪」と言ってよいでしょう。

地上には山・川・草木などが溢れていますが、これまた同じく皆「妖怪」。

そよぐ風は木の葉を鳴らし、小川のせせらぎは岩の間をぬって流れ、人は出会って喜び別れて悲しむ。

これこそ妖怪の最たるものではありませんか!

「水」はいくつかの分子で構成されており、分子は元素によって成り立つと言いますが、それではその「元素」はいったい何からできているのかと問われれば、答えられる人はいません。
なんと、小さな水の中には「小妖怪」がいるのです。

我らが把握できる最も大きなものは「宇宙」ですが、これこそ人知の及ばぬ「大妖怪」です。
つまり、大小の両端に「妖怪」が立ちはだかって、人間は外へ出ることができないというわけです。
これはまさに、「真の妖怪」と呼ぶべきです。

それでも人間は、「知識」という名のハシゴをかけ、妖怪のカベを乗り越えようと努力しています。

本当の妖怪とは何であるのかをハッキリさせ、それを乗り越えることに労力を集中させるためにも、ちょっと考えてみればわかるようなくだらないものごとを「妖怪だ!」などというのをやめさせたい。

それこそが、「妖怪学」の目的であるのです。

(続く)

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YOKAI STUDIES · 02

【妖怪学】運気について

2005.12.5

第4純正哲学部門第三講占考編23節「運気考」より。

天気予報ぐらいならまだしも、自然現象を見てそれを人間の吉凶に当てはめようとするなんて、バカ野郎にもほどがある。
「水」にあたる年には洪水がおこり、「火」に当たる年には火災がおこるというような類の占いは、無理がありすぎて、どうしてこんなものを信じてしまう人がいるのかと思うほどである。(毎週必ず水曜日は雨で、日曜日は晴れて、火曜日は暖かい、というようなものだからだ)

どうしてこんなことが古来まかり通っているのか?
この間、ダチの三上参次くんも『天則』誌で書いていたが、我が国民は古事記・日本書紀の時代から実に迷信深い連中であったのだが、漢字と仏教が伝来するに至って、そのシステムに感銘を受けるあまり、例え話まで真に受けてしまい、それを引き継いだ学者たちの脳に染みついてしまったことは間違いない。

仏教が広まるに従って、色々な偶然を全部これにこじつけてしまい、もうどこから突っ込んでいいかわからないほどトチ狂ってしまったのである。(平安時代なんて、連日、上から下まで祈祷・まじないに明け暮れていたことはご存じの通り)

だいたい、頭の悪い連中が、儒教・仏教をきちんと学びもせずに都合の良いところだけ取り出して、それに妄想をくっつけまくったものなんて、ロクなもんじゃない。
孔子が「怪力乱心を語らず」と言ったのは、まさにこれを諫めたものなんだ。

そもそも儒教が、「天」が善悪を判断し、人間に賞罰を下せるかのごとく説いたと理解されているのが間違いだ。
善悪の応報は、晴れたり曇ったりとかの自然現象に現れるのではなく、人の心の中、すなわち内界においてこそ現れるのである。
善いことをすれば、気持ちが良いし、悪いことをすれば、落ち着かず苦しい思いをする。これを「良心の賞罰」と呼ぶ。

「占いにすがろう」などと考えるという段階で、既にその人の心は正常ではなくなっているのだよ。

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YOKAI STUDIES · 03

【妖怪学】鴉鳴き、犬鳴き

2005.12.7

第4純正哲学部門第三講占考編26節「鴉鳴き、犬鳴き」より。

「人が死にそうになると、カラスが集まってきて鳴いたり、犬がもの悲しげに鳴いたりする。つまり動物には、人の死を予知する力があるのだ!」などと信じている輩がいるようだが、それはあまりにも短絡的過ぎる。

まず、物理的側面からこれを見てみよう。

暖かく晴れてすごしやすい天気であれば、病人の体調も安定し、カラスも犬もそれほど騒がない。

逆に、天気が次第に荒れてきて、うっとうしい感じになってきたら、健康な人だって調子が悪くなる。

病人が死ぬのはだいたいそんな時だ。
カラスも犬もそんな時はおとなしくしていない。

要するに、カラスや犬は天気に対して反応しているだけで、病人も天気によって体調を左右されているだけであって、人が死にそうだからカラスや犬が鳴いているわけではないと考えられる。

また、心理的側面からこれを見てみよう。

そもそもカラスや犬は、いつだって鳴いているのだが、普段は皆気にもとめない。

ところが、人が危篤に陥っていると、周囲の人は静かにしているので、妙にカラスや犬の鳴き声が耳につく。

おまけに冒頭のような迷信が幼少の頃から刷り込まれているものだから、病人のほうも「ああ、俺はもうダメだ・・・」とか余計に気落ちして、遂には本当に死んでしまったりするのだと考えられる。

とはいえ、動物や昆虫の中には、人間にはない特殊感覚がないとは言い切れない。
例えば、蟻が砂糖を、また雀が穀物を感知するのが度を越えて速やかであるようなのがそうだ。

ただし、それらは総じて物理的に説明可能な原因によるのである。そこを踏まえない世間一般の言慣わしは、あっという間にそのレベルを超えていってしまうので、ほとんどは迷信だといってよい。

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YOKAI STUDIES · 04

【妖怪学】コックリさん考

2005.12.15

第5心理学部門第4講「心術編」第41~46節「コックリさん」より

最近「コックリさん」が大ブームになったようだね。
「狐狗狸」とか「告理」とか、いかにもいわくありげな字を当てちゃって、どんなことでも占えるということで、大いに流行した挙句、色々問題を引き起こして、大阪府では警察がこれを禁止するなどの騒動になっているとか。

その方法は大まかに言うと、3~40cmぐらいの長さに切りそろえた竹を3本用意し、真ん中をひもで縛って、その上に飯櫃の蓋を乗せ、3人でそれを取り囲んで片手を蓋に軽く添え、「コックリさん、お移り下さい」とかを念じ続け、10分ぐらい念じてから、質問をすると、その蓋が傾いたり回転したりして答えるというものだ。

勿論、こんな装置に鬼神が取り憑いてお告げを下すなんてことがあるわけがなく、やっている人たちが手を動かして傾けたりしているのは明白である。

私も学生達と一緒に何回かやってみたが、動くときもあり、動かないときもあり、回答が正しいこともあり、正しくないこともあった。みんなが知っているような事柄については正答率が高く、知らないこと、あるいは未来のことについては、正答率が低かったり、回答がなかったりした。
知っていることが示されるというのは、我々が自分で動かしているからであり、未来のことがわからない、当たらないのは自分たちがわからないからである。たまに当たることがあるのは、偶然と断言してよい。

この手の現象は、要するに、中途半端な位置に手を長時間差し出しておくと疲れてフラフラしてきて、あとはきっかけさえあれば容易にあちこちと動いて、正しく律することができなくなるというだけの話である。

古代からある由緒正しい技のように思っている人もあるようだが、これはいわゆる「スピリチュアリズム」すなわち鬼神術として1848年にアメリカで確立されたものに過ぎない。

この術は、その後イギリス、フランスに伝播して、ついには全ヨーロッパを席捲し、1859年にはこれを専門職として行う者1000人、それを信じる者150万人の多きに及んだという。

これらのそもそもの発端は、1826年にニューヨークの靴屋の息子として生まれた、アンドリュー・ジャクソン・ダビス氏である。
彼は学校もほとんど行かず、周りからは白痴だと思われていたのだが、幻視・幻聴が甚だしく、遂には自分は精霊と交信することができると信じるに至った。
これを見たある商人が、彼のこの能力で金儲けをしようと思いつき、あちこち連れ歩いては病人を診察させた。
すると彼は、その病気の原因や事情を明らかにし、治療方法までスラスラと言うことができたので、すっかり評判となり、彼に診て欲しいという人たちが行列をつくるに至ったとのこと。
で、その手法を示す本を刊行したりして大いに繁盛したらしい。

で、それを研究した人たちが編み出したのが、質問するとテーブルが動く、ないしコツコツと音を出して回答するという技術「テーブルターニング」、「テーブルトーキング」である。

さて、明治17年(1884年)のことである。
アメリカの帆船が伊豆下田の沖で難破し、乗組員達が船が直るまでしばらく下田に逗留した際、現地の人にこれを伝えたらしい。
もとより暇つぶしにやっていたので、その辺にあり合わせの材料でやってみせ、英語でその名を伝えたのだが、現地の人がそれを発音できず、覚えることができなかったため、蓋がコックリコックリと動く様から「コックリ」と呼んだのが、我が国の「コックリさん」の始まりである。
その後、下田に立ち寄った船頭達がこれを東西に広めたという寸法である。
調べたところ、明治18年に東海地方で流行し、その後京阪から山陽、南海、中国地方にまで達している。同じ頃、千葉、埼玉にも伝わり、明治20年には東北に伝播、その翌年には北陸地方に伝わっている。

まぁしかし、始めにも述べたが、これはつまり、いわゆる「予期不覚」というもので、皆あらかじめ「コックリさん」に関する情報を聞かされており、蓋が勝手に動くと思いこんでいる上に、手が疲れてくると本当に動き始めるので、いよいよそれを信じて無意識のうちに自分の手を動かすに至るというだけの話であり、こんなもので正しく事実が占えるわけがない。

新聞にも載った笑い話を一つ挙げよう。
巣鴨に住んでいる勇くんという男が、オタツという女性と結婚したのだが、この「コックリさん」にはまってしまって、尋ねて曰く、「コックリさんコックリさん、オタツさんには私以外にも付き合っていた人がいたのではありませんか?いたのであれば、足をあげてください。」すると、コックリ装置が傾いて片方の足があがった。オタツさんはそれを見て負けじと「コックリさんコックリさん、勇さんには今でもいるでしょう。いるのであればこっちの足を!」するとやっぱり足があがったので、とうとう喧嘩をしだした。
見かねたお母さんが、「コックリさんコックリさん、今のは冗談ですよね?冗談であれば右に回ってください。」と言ったところ、右に回り出したので、一同大爆笑となったそうな。

皆さん、遊びでやっているうちはいいけれども、あまりこの手のものを真に受けないように。

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YOKAI STUDIES · 05

【妖怪学】失念術

2005.12.29

教育学部門付録「失念術講義」より
世間の人々は、「スーパー記憶術」などと言っちゃって、いかに物事を覚え、忘れないようにするかに血道をあげているようだが、そもそも人間の覚えておける分量には自ずと限界があるのだ。
なんでもかんでも無限に詰め込めるわけではない。
記憶量に限界がある以上、古いメモリーを削除しないと新しいことは覚えさせられないという寸法だ。

だいたい、つまらないことばっかり覚えていて、肝心のことがちっとも頭に入らないということは、私も含めてよくあることなのではないだろうか。

はたまた、実にしょうもないことに頭を煩わされて、本来幸福であるべき人生を、必要以上に辛いものにしている人も多いようにお見受けする。

これらは全て、「忘れるべきことを忘れられない」ことに由来するのである。

もし、「失念術」を会得することができれば、記憶を助けるばかりではなく、大いに人生を幸せなものにすることができるというわけである。

失念術には、大きく分けて物理的・心理的の2種がある。

物理的失念術とは、スポーツや医療を組み合わせた身体の養生によって血の巡りをよくして、その間接的な効果としてストレスを解消しようというもので、直接的な失念術とは違う。

心理的失念術こそ直接的な失念術ということができるのだが、それにも、感覚的・思想的の2通りがある。

感覚的失念術とは、5感などの働きによって人の注意をそらさせ、それによって失念させようというものである。

  1. 視覚的失念術:とても美しいものを見ることによって忘れる。
  2. 聴覚的失念術:美しい音楽、歌声などを聴いて忘れる。
  3. 触覚的失念術:暖かい風呂などに入り、忘れる。
  4. 感覚的失念術:いい香りを嗅いで忘れる。
  5. 体覚的失念術:酒を飲んで忘れる。

これらは多く美術・芸術に関連するものである。
後述する思想的失念術は、多少「学」が必要になってくるため、無知無学の輩にとっては、この感覚的失念術以外ではストレスを解消することは不可能なのである。

美人を見ながらいい音楽を聴いて、いい香りを嗅ぎながら風呂に入って酒を飲むという感じか?:訳者記

※実施にあたって2点だけ注意事項有り。

  1. 普段悩んでいることと全く関係ないものを選ぶべし。
  2. 自分の趣味嗜好にあったものを選ぶべし。

思想的失念術は、思想そのものの力によってストレスを解消、または発想を転換し、いらん記憶を発展的に解消しようというもので、まさにオススメなのだが、バカにはできないのが辛いところだ。
方法は色々有りうると思うのだが、以下にいくつか例示する。

  1. 再現的失念術:幼少の頃の楽しかったこと、または歴史上の事柄を回想し、その当時の愉快なる状況を再現し、現在の不平を解消する。
  2. 想像的失念術:自分にとって最高に都合の良い「極楽世界」を思い浮かべて楽しむ、または昔の、あるいは自分の詩や文章を工夫、玩味して楽しむ。
  3. 推理的失念術:理学的知識を動員して、新しい器械などを工夫、発明することに没頭することで他のことを忘れる。または「万有の哲理」「宇宙の真理」などの探求に没頭し、我を忘れる。
  4. 世外的失念術:老子や荘子のごとき虚無恬淡、無為自然の理をたのしみ、世間のいわゆる不幸、災難などを全く気にかけなくする。または、仏教のごとき解脱の法を講じることで世俗を超越し、喜怒哀楽を超えて独歩する。
  5. 理外的失念術:座禅などによって心を道理・物心を超えた境地に到達させる。または、信仰・崇拝などによって、心を理屈を超えた神仏・天帝に帰依させ、心の平安を得る。

要するに、何かを忘れるには「宗教にハマる」のが一番手っ取り早いということである。

上記の2法以外にも失念術はある。

  1. 転境的失念術:引っ越す、転職する、つきあう相手を変えるなどの方法によって物理的に境遇をかえることで、精神状態や思考回路にも好影響を与える。
  2. 遊興的失念術:ゲームやギャンブル、コンサートや映画などに没頭して嫌なことを忘れる。
  3. 発声的失念術:大声で歌う、または文章を朗読する、またはお経を読むなど、発声によってストレスを解消し、最高にグルービングな気持ちになる。

まだある。
繁華雑踏的失念術である。
一般にストレスや悩み事で疲れたら、「何もしないで静かなところで休むのがよい」などと言われているが、必ずしもそうではない。うるさかったら眠りにくいが、逆に妙に静かだとかえって眠りにくいものである。多少、雨音や虫の声などが聞こえたり、燈火が揺らめいたりしていた方が眠りやすいものである。
つまり、静閑無事ではなく、むしろ多事多忙の境遇に身を置き、終日奔走するならば、どれだけ憂慮すべき大事なことでも、考える暇が全くないので、きれいサッパリと忘れちまったりすることが可能となるわけである。

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YOKAI STUDIES · 06

【妖怪学】夢とはなにか

2010.8.22

第五心理学部門第五章「夢の説明」より。

夢はなぜ発生するのか?

そのナゾは、「唯識論」以外の手法では説明不可能だ。

「唯識論」とはつまり、「この世の中のあらゆる事物や現象は実在するのではなく、存在するように「感じている」だけに過ぎない」という極めて根源的で破壊力の強い理論である。

人間には、見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりという、いわゆる「五感」があるというのは、皆疑わないところであり、「寝ている」というのはつまり、「五感」が休眠した状態のことである。

「唯識大意」という論文中では、「夢」について次のように述べる。

『各種感覚・知覚器官、つまり五感そのものは夢を見ない。

そもそも覚醒時に見たり聞いたりしている五感のハタラキですら、五感そのものは認識していない。

五感の刺激を受けてそれらを総合的に情報処理している第六の意識層というものがあり、そこがもっぱら思考を司っているのであるから、「夢を見る」経験は、つまりこの「第六意識」の思慮分別能力あってのことなのである。

五感が休眠し、かつ夢を見ていない時は、この第六意識のハタラキも失われ、「意識」として認識することが不可能な第7層「末那識(まなしき)」と第8層「阿頼耶識(あらやしき)」のみ活動を続けている状態といえる。

だからつまり、「夢」を見させているのは、その第7層のハタラキなのである。

第7層は別名を「伝送識」とも呼ぶ。サンスクリットで「アーダナ(阿陀那)」と呼ばれているハタラキのことなのだが、「アーダナ」とは「伝送」という意味だからである。

これが何を「伝送」しているのかというと、無意識下の最下層に横たわる第8層「阿頼耶識」からの信号を、思慮分別層である第六意識層に伝えているのである。

この第7意識層の存在は、夢も見ないで眠っている時に呼びかけられても、「自分が呼ばれている!」と気づくことができることで知ることができ、それ故に「執我識」とも呼ばれる。

常識的な思慮分別が失われているにもかかわらず「自我」を認識し続ける。

この状態で何らかの刺激(身体の内外を問わず)を受けると、「夢」が発生するのである。

夢の中ではとてもハッキリと筋道の通っていた事柄が、目覚めてから考えてみると支離滅裂であったりするのは、つまりそれが原因なのである。

『止観』の第五巻には、「心があるから夢を見るのか?眠るから夢を見るのか?」というテーマで問答がなされており、結論は次のようなものである。

『もしも「心があるから夢を見る」というのであれば、「夢」はつまり、眠っていない時にも見ることができるということになる。

「眠るから夢を見る」というのであれば、死人もまた「夢」を見ていることであろう。

「眠りと心が合わさって夢を見る」というのであれば、眠って夢を見ないことがある説明がつかなくなる。

それでは「「眠り」と「心」を離れて「夢」がある」などと言ったら、「夢」そのものが独立して存在することになってしまってわけがわからなくなる。』

雲棲禅師は「竹窓随筆」の中で次のように述べている。

『「夜寝ている時に見る夢は大半が現在の生活に関連したことばかりで、前生とかそういったものを夢に見ることがなかなかできないのは何故でしょうか?」などと尋ねてくるアホがおるが、そもそも記憶にないものを夢に見ることは不可能じゃ。

伝説上の聖人たちでさえ自分が生れ落ちる瞬間だけはブラックアウトしているというのに、我々みたいな凡人がそれを超えて生れ落ちる前の記憶を保てるわけがないじゃろう!

だのにオマエたちときたら、全員がん首そろえて、日中は愚にもつかないあれやこれやで思い悩み、夜は夜で日中のくだらない出来事にうなされてやがる。

もう一度言うが、全く経験したことのない事柄を夢に見ることは絶対に不可能じゃ。

つまり、「夢」とは「現実」と一体不可分なのじゃ。

わかるか?

こと「思考・思索」のハタラキに関して言うならば、「睡眠時」と「覚醒時」の区別などないのじゃ。

起きている時は頑張ってしっかり考えろ!

寝ている時も、同じようにしっかり考えろ!!』

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HETERODOX PHILOSOPHY · 07

【外道哲学】イントロダクション

2006.7.16

インドには、少なくとも、お釈迦様が生まれる4000年以上前から、実にたくさんの哲学思想が存在した。

現在の「仏教」は、既存の他流派を総合した上で「ルネッサンス」を実施したもであるにもかかわらず、それら既存の諸学説を「外道」と名づけてハナから度外視している仏教家の姿勢には、学問上の欠点があると言わざるを得ない。

仏教以外の教えを「外道」と名づけるのであれば、儒教、道教は「中国の外道」、キリスト教は「西洋の外道」だ。

ところが、仏教の中にも「外道」とされるものがあるのだという。

「これはいったいどういうことなのか?」と問うと、「他教ではあっても利益があるなら「正法」で、仏教でも利益がないなら「外道」なのだ」とのこと。

それなら尚のこと、「異説だから」などと言ってスルーするのではなく、幅広い哲学思想に触れてみるべきではないのか?

「外道」研究、それはつまり、仏教哲学の世界への「入り口」なのだ。

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HETERODOX PHILOSOPHY · 08

【外道哲学】なりゆき外道

2007.7.28

いわゆる「外道」たちは、この世の中がどうやって成り立っているかという問題を論究し、万物は「」からできている、また「」、「」、「」からできているのだと考えた。

そして、それらを合一して「世の中のあらゆる物やハタラキはその4つによってなる」、とする「四大元素論」を編み出した。

*西洋ではエンペドクレスが同様の結論を出している。

さらに、それではその「四大元素」は何でできているのか、ということをさらに論究し、「万物は微細な物質が集散分合することによって変化を繰り返す」のだという「極微(ごくみ)論」に到達した。

*デモクリトスの分子論に比される。

そして、その考え方は、「万物が極小分子によって成り立つのであるから、人間もその辺の石ころなどとなんら変わらぬ「化合物」に過ぎないのだ」という「唯物」論へと行きつく。

人類の持つ「精神作用(識心)」ですらも、化合物の有機反応がちょっと複雑になっただけなのだと。

つまり、「心」も「物」なのだという。

この「唯物」論を受けて、路伽耶(ローカーヤ)派が登場した。

路伽耶派の主張は、以下の通りである。

  • 天地はもちろん、草根木石から人間、さらには精神作用に到るまで、「物質」でないものはない。
  • 万物がひとしく「物質」である以上、発生し、変化して滅びるという「物理法則」から逃れられるものはいない。(人間のタマシイもまた同様)
  • 自然の摂理=物理法則である。
  • 不自然(=反物理的)な行為・思想は成立しない。
  • 全ては「あるがまま(=なされるがまま)」にてあるべし。

そして仏教はこれを「順世外道]として貶斥した。

「なんでもかんでも「なりゆき任せ」だなんて、キサマそれでいいと思ってんのか!?」というわけである。

西暦400年代後半に中国で仏教史を整理した劉虬(りゅうきゅう)という人は、「路伽耶が言わんとすることは、我が国における老荘の主張と酷似している。」と言ったそうだ。

順世外道のエピソードをひとつ紹介しよう。

昔々、「世の中すべてなりゆき任せ」と主張する学者がやってきて、あちこちのお寺にケンカを売ってまわったことがありました。

彼は、世の中がいかに「なりゆき任せ」であるかを40条の箇条書きにした紙をお寺の門に貼り付けて、こう高言したのです。

「さぁさぁ、オレ様のこの素晴らしい理論を見るがいい。
もし一箇所でも論破することができるヤツがいたなら、オレ様の首をくれてやるぜ!
さぁどうした?かかってこいよ、オラオラ!!」

何日かが過ぎましたが、皆遠巻きに見るばかりで、誰も議論しようとする人はいません。

学者はすっかり勝ち誇った気持ちになりましたが、ふと見ると、寺から若い掃除係の修行僧が出てきました。

その掃除係は、学者の目の前で張り出してある紙を引き剥がすと、ものも言わずにビリビリに破いて地面に叩きつけ、土足でガンガン踏みにじり始めたではありませんか!

学者は大激怒して言いました。

「うわーっ!何をするんじゃ!!
オマエ、何者だ?!」

青年は答えました。

「オレ様は、提婆宗だ!!」

それを聞くと、学者は何も言わずにスゴスゴと帰っていったということです。

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HETERODOX PHILOSOPHY · 09

【外道哲学】こんな外道に気をつけろ!

2007.6.10

「楞厳経(りょうごんきょう)」より

***(十種外道論)*******

こら、アーナンダ、よく聞きなさい。

世の中には、スキあらばお前を騙してやろうという連中がウヨウヨいるんだ。

ボサっとしていたら、あっという間にやられちまうぜ。

参考までに10種類の「外道」のパターンを教えてやるから気をつけろ!

例えばこんなことを言うヤツだ。

「人類は太古の昔から生まれたり死んだりを繰り返してきた。

この世界が生まれる前に何があったのか?
・・・そんなこと、結局誰にもわかりはしない。

でも、何もわからなくても、人類はただ生まれたり死んだりし続けている。
・・・ようするに人類の存在には、何も意味なんてないんだ!

意味なく生まれ、意味なく死んでいく。

ただそれだけだ!!」

これを名づけて「意味なし外道(無因外道)」と呼ぶ。

また、似たようなのでこんなヤツもいる。

「鳥が鳥からしか生まれないのと同じように、人間は人間からしか生まれない。

カラスが黒いのは元からだし、白鳥が白いことは今さら言うまでもない。

人間は直立歩行するが、獣は四つんばいで歩く。
それが「自然」てヤツだからだ。

色の白いものは洗ったから白くなったのか?
黒いものは染めたから黒くなったのか?

違うだろ?!

白は元から白だし、黒は元から黒なんだ。
つまり、昔も今も、何も変わらないし変えることなんてできやしないんだよ!!

「悟り」を得られるだって?

バカ言ってんじゃねぇよ。
かつて得られなかったものが、これから得られたりするもんか。

百歩譲って、それが得られたとしたところで、結局世の中何も変えられやしないんだよ!!」

・・・こういうヤツを、「シラケ外道(立無因外道)」と呼ぶ。

アーナンダ、わかるかな?

(続く)

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HETERODOX PHILOSOPHY · 10

【外道哲学】大バカたちの主張16種

2007.6.12

「瑜伽経(ゆがきょう)」より

因みに「瑜伽」とは「ヨガ」のことである。

***(十六異論より)*******

世の中には呆れるほど多種多様なバカタレが満ち溢れていて、我らをとってもウンザリさせたりイラつかせたりしてくれる。

バカはバカの自覚を持って、少しは遠慮して生きてくれればよいものを、そういうヤツらに限ってエライこと声と態度がデカいのが相場とくるから困ったものだ。

挙句に他の人にバカをうつそうとするのだから、全くもって始末におえない。

ほらほら、そこで笑っているアナタ。

ひょっとして、「自分は関係ない」とか思っているんじゃないか?

そういう人こそ気をつけるべきだ、というのが私の考えだ。

これから私が世の中の「バカの主張」を大きく16種類に分類してみせるから、身近にそんなヤツがいたら気をつけるのはもちろんだが、自分にもそんなところがないかどうか、よく考えてみて欲しい。

  • 主張その1.「世の中結局タイミングが全てさ!コツコツやるヤツぁご苦労さん!!」
  • 主張その2.「世の中結局快楽が全てさ!美しい色、美しい音楽、うっとりするような良い香り、おいしい料理、気持ちいい感触、それらをエンジョイしている時こそ生きる喜びを感じるね!!」
  • 主張その3.「世の中ツライことばっかりだけど、それはきっと「前世」でハメを外し過ぎたからなのさ!つまり逆に今苦しんでおけば「来世」はその分だけ楽なものになるハズだ!そうとも!だから今、もっともっと苦しまなければ!!」
  • (中略)
  • 主張その8.「肉!肉はウマイよね。もう毎食が肉でもいいぐらいだよ!「殺生するな」だって?わかってないねぇ。オレ様にぶっ殺されて食われたものは皆、天国に生まれ変わって感謝しているハズだぜ!「殺生」最高!!食べたらウマイし。」 ※これを「害為正法論」と呼ぶ。「肉好きな連中は、つまるところ他を害するのが好きなのだ!
  • (中略)
  • 主張その14.「オレ様は○○の生まれだからとってもエライんだ!なんたって○○の生まれだからね。他のヤツらはみんなカスだ!だって○○の生まれじゃないんだもの。」
  • (中略)
  • 主張その16.「占いはマジで当たるよ!本当だって!今度○○星が月に対してこの角度になるから○○の人は要注意ね!ああ、あとこの○○数占いによるとアナタ明日死ぬことになってるから。それを避けるためには○○星を拝んで(以下略)」  ※これを「妄計吉祥論」と呼ぶ。要するに「占い狂」のことだ。

いわゆる「外道の意見」=「異論」は、おおむね上記の16種に分類可能だ。

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